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あこがれの特急運転~電車を停めて人命救助も
ヨーロッパ調のデラックス車としてもてはやされ、1961年(昭和36)7月5日から84年(昭和59)9月16日までの23年間走り続けた2代目座席指定特急こうや号。アーカイブス17回目は、橋本駅(和歌山県橋本市)から、このこうや号に乗って、終着駅極楽橋まで行ってみよう。
私が南海電鉄の許可を得て、腕章をつけ、橋本駅から乗車したのは80年(昭和55)9月9日。写真上は、運転台の後ろの仕切りの窓から見た風景で、目の前は下古沢駅。写真中は、運転士の真剣な眼差し、安全運転を心掛ける様子がよくわかる。2枚の写真とも、無論、運転に支障のないよう十分配慮しながら、カメラのシャッターを切った。そして写真下は、極楽橋に着いて、「ひげ」のニックネームで呼ばれていたズームカーと並ぶこうや号。
先日、この時の運転士だった大阪府千早赤阪村の喜田肇さん(77)から、現役時代の話を伺うことができた。
通勤電車を運転していたころから、特急こうや号にあこがれていた喜田さん。こうや号の運転士といえば、当時は50代のベテランが運転するのが当たり前だったそうだが、喜田さんは39歳という比較的若い年代で、抜てきされたという。思い出をいくつか紹介しよう。
喜田さんは、こうや号が極楽橋に着くと、難波行き発車までの休憩時間を利用して、電車の前頭部分をワックスで磨き、ピカピカにしていたというから「愛車精神」そのものだったようだ。
ある日の単線区間運転中の出来事。場所の特定は省くが、カーブを過ぎて直線にはいったとき、川で溺れている子供を発見。規則で鉄道にかかわること以外、電車を停めることはできないが、乗客に説明して停車。たまたま乗っていた南海の社員に救助を頼み、電車はすぐに発車させた。子供は無事救助されたというから、後世に残る美談といえる。
そのほか北野田駅(大阪府堺市)付近で起きた事故が、沿線住民の誤認の通報で、ヘリコプターが飛来するなどして、大騒ぎになったことなど、いろいろな出来事が詰まっているようだ。
(フォトライター 北森久雄)