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「原発反対、正しかった」日高町の町長ら安堵
東日本大震災の大津波の被害を受けた福島県の福島第一原子力発電所の放射能漏れの危険性から、周辺市町村では、避難や自宅待機はじめ、農産物の出荷制限など住民生活に大きな影響が出ている。原子力発電所問題については、和歌山県内でも1960~70年代、建設推進か建設反対かを巡って大論争があったが、結局、建設せずに今日に至っている。そんな折、かつて読売新聞社の同僚で、原発論議が盛んだった舞台である、和歌山県日高町周辺地域を担当していた読売新聞御坊通信部の竹内文雄元記者が、原発反対を貫いた同町の現町長と元町長に直接取材し、その内容を送信してくれた。
福島原発事故の後、県民の間では、「これまでは原発推進派だったが、今は絶対反対派に変わった」とする結果論に基づく声や、「問題なのは危機管理がお粗末だったことで、原発無用論はまるで論理の飛躍」とする人災糾弾派、また、「将来は原発のない日本を目指すにしても、今は原発の安全性を確保しながら、太陽光や風力、波力、地熱発電、あるいは新しい発電方法に取り組むべき」とする、現実路線派など、さまざまな意見が出ている。
和歌山県民としては、県外の原発のお陰で、便利な生活が出来ているこを承知しながらも、福島第一原発事故の後は、「原発がなくてよかった。大地震・大津波が起きても安心」と、ほっとしているのが本音だろう。昔の県内の原発論争とは、どんなものだったのか。その一端を見ることが、今後の判断の参考になるかも知れないと考え、竹内元記者の通信文を紹介することにした。(高野山麓・橋本新聞代表 曽我一豊)
通信文=「和歌山県日高町に、初めて原発計画が持ち上がったのは、1967年のことです。建設予定地は、同町阿尾、小浦両地区です。町議会が誘致決議をしたり、チェルノブイリ原発(現ロシア)事故のあおりで、一部着手していた陸上調査を凍結したり。町議会が推進陳情するなど、賛否をめぐり、めまぐるしく展開しました。この間、住民や地元の比井崎漁協は賛否両派に分かれ鋭く対立。親戚同士や同じ屋根の下の兄弟でもいがみ合ったり、町内会の行事に参加しないなど、大きな亀裂が各地区で見受けられました。町内を2分する対立をなくそうと、1990年9月の町長選挙で初当選した志賀政憲町長(73)は「原発にたよらない街づくり」を表明。それまで毎年の予算に組まれていた住民らの「原発視察費」(年間500万円)をカットするなど、町内から原発を一掃した。志賀さんは『当時は、和歌山県も原発推進の立場だったので、私の反対施策により、県や国からの補助金や交付金を減らされるという指摘もあった。しかし、実際はそんなことはなく、町立武道館はじめ、いろんな施設を建設することもできた。もし、原発事故が起きたら、住民の安全が脅かされるのではないか、そんな不安がなくなったことが、町長としてうれしかった』と、当時を振り返りました。志賀さんが町長になる前の、町議会事務局長当時、福島県双葉町へ原発視察に行くと、町の幹部は『原発に反対する住民など追い出せばいい』などと、一本やりだったことを覚えています。志賀さんは『このように推進しか考えない姿勢でしたから、住民に避難や自宅待機などの迷惑をかける事態を、考えていたとは思えない』と語ります。福島原発事故が起きた後、『私のもとへ県内の御坊市や大阪府吹田市の住民らから、原発反対の姿勢を堅持してくれたお陰で怖い思いをしないですみます、という電話が寄せられます』と説明してくれました。一方、志賀さんについで、2002年から日高町長を務めている中善夫町長(67)は、町長初当選直後と04年の2回にわたり、関西電力に対し「原発中止」申し入れました。もし、町内に原発計画が再燃し、建設された場合、事故は皆無といえるのか。事故が起きた場合、住民の安全はどうなる。そんな不安からの行動でした。中町長は今、『原発に頼らないまちづくりを踏襲してよかった。予想されている南海、東南海地震が起きて、もし、原発事故が起きたら、日高町だけでなく、県内外の多くの人々に多大な迷惑をかけることになる。原発を推進しないで本当によかったというのが実感です』と言い、最後に『早く西日本の電気が、周波数の異なる東日本へ送れるよう、技術開発を進めてほしい』と希望を述べました」(読売新聞御坊通信部、元記者・竹内文雄)