特集
橋本駅前に飲み屋いくつも~昭和、大にぎわい
南海線アーカイブス13回目は、前回に続いて和歌山県橋本市の橋本駅。今回は駅の改札口を出て、駅舎と駅前を懐古してみたい。
写真上は、定かな記憶は残っていないが、紀和鉄道(今のJR和歌山線)が開通した1898年(明治31)ごろに建てられたといわれる重量感のある木造の駅舎。1958年(昭和33)4月26日撮影。
写真中は、木造駅舎から、橋本市の表玄関にふさわしい近代的な駅舎へと、総工費1500万円をかけて、59年(昭和34)7月に完成した新駅舎。あれ、あれ、どうして車が駅の玄関に駐車しているかって。今と違い、当時は駅舎を出ると、すぐに緩やかな下り坂になっていた。80年(昭和55)ごろから始まった駅前整備事業で、旅館や食堂などが撤去されて、平らかな広場に造成。段差のできた分だけ、階段になったというわけ。
前回の跨線橋(こせんきょう)に触れた際にも、「鉄道文化遺産が、また一つ消えた」と記述したが、木造駅舎の解体時にも、一部の人たちから嘆く声が聞かれた。今までに駅関係のほか、劇場の明治座、前畑記念プール、幼少のころ過ごした岡潔の家、橋本小学校の講堂、本町の町家などなど、どれだけのものを、いとも簡単に壊してしまったことか。
古今を問わず、橋本市の行政には、貴重な文化遺産を後世に伝える感覚が薄いといわざるを得ないし、行政まかせの市民側にも、責任の一端を感じるが、どうだろうか。
写真下は、第26回和歌山県国民体育大会(黒潮国体)が行われた71年(昭和46)10月、高校軟式野球競技の会場となった橋本市に、全国から精鋭10校が集まって開かれた時の駅前の光景。ちなみに野球競技の決勝戦は和歌山県立和歌山商業高校と熊本県の熊本商業高校が対戦し、1対0で熊本が優勝した。
このころ、駅前には何軒もの飲み屋があって、勤務を終えた職場の同僚や仲間が飲み屋に立ち寄り、ご機嫌な人たちの姿が、あちこちで見かけられ、活気にあふれていた。
(フォトライター 北森久雄)