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爆発ドラム缶、なんと〝十能〟に!…橋本駅・空襲

太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市のJR・南海「橋本駅」で停車中の貨物列車が、米軍・艦載機の機銃掃射を受け、松根油(しょうこんゆ)入りのドラム缶が次々爆発、上空に舞い上がり、市民6人が犠牲となったが、このとき爆発したドラム缶を使って、地元製材所が炭火を運ぶ道具「十能」(じゅうのう)を制作していたことが8月20日、「米軍銃撃犠牲者追悼の会」世話人代表・阪口繁昭さん(85)の調査でわかった。橋本駅・空襲の〝語り部〟として奔走している坂口さんは「あの日のドラム缶が、十能に生まれ変わっていたとは…」と驚き、「橋本駅・空襲の貴重な資料、保存するとともに、皆さんに見ていただきます」と話した。
十能とは木の柄(え)の先に金属の皿を付けたスコップ状の道具。爆発ドラム缶を使って制作された十能は、長さ約42センチの棒の先端に縦約20センチ、幅約15センチの鉄製皿を取り付けた頑丈な製品。
終戦後、橋本駅近くの松山製材=松山雅昭社長(67)=の先代社長が、物資不足で統制経済の中、大量の十能を制作した。今は製材所一角で、その完成品と木の柄、鉄製の皿がほこりをかぶり眠っている。その数は目測で完成品70~100本、棒400~500本にのぼる。
今回、「ドラム缶が十能になった」という証言者は、日本板画院同人の板画家・巽好彦さん(78)で、巽さんは約20年前、懇意にしている近所の松山製材から、「これは橋本駅・空襲の爆発ドラム缶で作った十能です」と説明を受けながら、十能2本をいただいた。以来、炭火とバーナー両用の風呂焚き作業に愛用。近所の多くの人たちも、同製材から提供を受け、大切に使用しているという。
この情報を知らされた坂口さんは、さっそく8月20日、巽さんと松山社長に会い、爆発ドラム缶と十能制作の話を聞き取り調査。その結果、戦時中、橋本市東家から御幸辻にかけて、松山が広がり、国は松根油を航空燃料にしようと、少年少女を総動員。少年少女は松の根の掘り起し作業に従事し、松山製材は、その松の根の樹液をしぼって松根油をつくり、貨物列車で各地へ輸送されていた。
ところが、昭和20年(1945)年7月24日午前10時頃、米軍・艦載機2機が飛来、駅舎や無蓋車(むがいしゃ=屋根のない貨物列車)6両に、おびただしい機銃掃射を浴びせ、積んでいた幾つもの松根入りドラム缶が爆発炎上、上空100メートルに舞い上がり、破片は100数十メートル四方に飛び散った。
戦後の物資不足で統制経済の中、国の方針により、松山製材が、爆発ドラム缶の本体や破片などで十能を制作・販売したが、その後、ガス・電化製品の普及で、需要が減り、製材所内で眠っていたらしいことが判明した。
松山社長は「この十能がお役に立つなら」と、阪口さんに十能2本を贈呈。阪口さんは「これがあれば、橋本駅・空襲の話を、身近に感じてもらえる」と礼を述べ、巽さんも「当時、上空に舞い上がったドラム缶を、私も自宅から目撃しました。この十能のお話は、銃弾跡が残る橋本駅・跨線橋(こせんきょう)の板壁を丸山公園に保存展示し、犠牲者6人の追悼の碑を建立、ご冥福を祈っておられる阪口さんに、ぜひ、伝えたいと思いました」と話した。
阪口さんは十能を手に、「私たちは、悲惨な戦争を繰り返さないためにも、橋本駅・空襲について、次世代に向け、証言しなければなりません。上空に舞い上がった爆発ドラム缶については、おそらく100人以上が目撃し、今では新聞・テレビ報道で、全市民がご存じですが、それが十能になっていたという話は、市民のほとんどがご存じありません。語り継ぐべきお話だと思います」と話した。
写真(上)は爆発ドラム缶を素材に加工された十能を披露する巽さん(十能の左は巽さん使用のもの、右は松山製材で眠っていたもの)。写真(中)は制作された十能の木の柄の部分。写真(下)は松山製材の一角で眠る大量の十能。


更新日:2013年8月20日 火曜日 15:47

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