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織田秀信公・終焉の地、大河ドラマで脚光

    織田秀信公の自然石の墓石
    織田秀信公の自然石の墓石
    織田秀信公の自然石の墓石
    織田秀信公の墓所(石碑もある)
    秀信公の末裔・織田宗司さんと妻・富美子さん
    秀信公の末裔・織田宗司さんと妻・富美子さん

織田信長の嫡孫(ちゃくそん)・織田秀信公の終焉の地とされる、和歌山県橋本市向副の寺院跡と墓所が、今年、放映中のNHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」の人気にあやかり、全国ファンから脚光を浴びている。地元に住む秀信公の末裔で、元中学校長の織田宗司さん(80)は、「最近は戦国時代の歴史勉強に、中学、高校生も訪れてくれています」と喜んでいる。
同市学文路、郷土史家・北尾清一さんの「高野街道を中心に学文路地区文化財をめぐる」(橋本市文化財テクコロジー実行委員会)によると、秀信は天正8年(1580)、織田信長の長男・信忠の長男として出生。幼名を三法師といい、本能寺の変で、父・信忠は自害。三法師は家臣に守られ岐阜城に戻り、羽柴秀吉の推挙で織田家を後継。安土城で成人の後、岐阜城主となり、秀吉の「秀」をもらって秀信と改名した。
関が原の戦いでは、石田三成に誘われ、西軍に組みしたが、敗れて岐阜城に籠城。福島正則らの攻撃で落城し、秀信は自害を決意したが、正則らに諌められ剃髪得度。高野山にのぼる。かつて祖父・信長が高野聖を迫害したため、聖派に追われ、山麓の向副村に閑居した。村人の情で善福寺の一隅に住み、村の娘と結婚して、一子をもうけ、幸せな日々を送ったが、慶長10年(1605)5月8日、病気のため、26年の短い生涯を閉じた、というふうに記されている。
その秀信の墓所と住居(寺院)跡は、国道371号の南の丘陵地にある。「織田秀信公終焉の地」と看板が立ち、その前の急坂を10数メートルのぼると、秀信の経歴を漢文調で刻んだ石碑(大正7年=1918年)と、文字が風化して全く見えない自然石の墓石が建つ。その西側に柿畑となった善福院跡がある。辺り一帯は、地元の人たちが草刈をし、ほうきで掃き清めて、大切に保存されている。今年、NHK大河ドラマ「江~姫たちの戦国」が放映されると、にわかにスポットライトが当たり、観光関係者に「場所はどこですか」「道順はどう行けば」「秀信の資料は」などと、問い合わせが相次ぎ、次々と歴史ファンが参拝に訪れている。
これまで大勢の歴史家の調査で、秀信の末裔とされた織田宗司さんは、2001年に岐阜県岐阜市神田町で開かれた第45回「ぎふ信長まつり」(同実行委員会主催)に初めて招待され、信長ら戦国武将の武者行列を見物。その後も、岐阜市民らが毎年、観光バスで墓参に訪れているという。織田さんは「最近は、中学、高校生らが、秀信の調査に当家を訪れます。私は、秀信のことを真剣に学ぼうとする生徒には、貴重な資料を見せるようにしています」と言い、妻の富美子さん(79)も「高野山にも秀信の石碑がありますが、結局、この地に住んで、地元の娘と結婚したようです」と話した。
さて、秀信公は、以前にも話題にのぼったことがある。昔、発行されていた橋本・伊都の地方紙「きのかわ新聞」(平成6年=1994年5月1日)には「織田秀信公終焉の地に脚光 橋本向副 里人のやさしさ400年 郷土の秘史見直す機運」という見出しで、写真2枚を使い大きく掲載。脚光を浴びている理由について、「郷土史にくわしい北尾清一氏が学文路地区公民館での歴史講話の中で秀信を紹介したことや、市中央公民館のふるさと再発見講座の受講などで郷土史に対する関心の高まりがあるようだ」と書いている。

更新日:2011年4月7日 木曜日 22:31

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