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奈和県境の「飛び越え石」、そこに万葉人のまぼろし
林道を行くと、いきなり雉(きじ)が飛び立った。その驚いたような羽音が、しだいに飛び去った後、木々の茂みの下のほうから、水の音が聞こえてきた。和歌山と奈良の県境を流れる「落合川」だ。
落ち葉が積もり茶色くなった「万葉古道」を下りる。川はうっそうと木立に覆われ、両岸から岩肌が見えている。水かさは、昨夜来の雨で増えているようだった。川幅は約10メートル。東岸から3畳ほどの石、西岸から1畳ほどの石が、ほとんど平らな形で、川の中央へ向かって張り出している。二つの石の間は、ほんの50センチ程度か。水は音を立てて、その間を勢いよく流れていた。
東岸の石の場所が奈良県五條市、西岸の石の場所は和歌山県橋本市。そのことを念頭において、石を東から西へ、西から東へ、ひょい、ひょいと、またいでみると、「もう紀州に来た」「もう大和にいる」という、妙な感覚におそわれる。地元の古老は、大和では「神代の渡し」と呼び、紀州では「飛び越え石」と呼んできたという。
ここはJR和歌山線「隅田駅」から徒歩約15分。和歌山県橋本市隅田町真土。「飛び越え石」周辺を、こよなく愛したのは、万葉学者で名高い大阪大学名誉教授・犬養孝さん(故人)だ。なにしろ万葉人は、このあたりを舞台に、8首もの歌を残している。たとえば「白栲(しろたえ)に にほふ信土(まつち)の 山川(やまがわ)に わが馬なづむ 家恋ふらしも」(作者未詳)という歌。これは「信土山の川で私の乗る馬が行き悩んでいる。家人が私を思っているらしい」」という意味。
犬養さんは、そこに立ち、子々孫々に伝えたい「万葉の国宝だ」と絶賛したという。また、和歌山が誇る画家・雑賀紀光さん(故人)も、この景色を好み、飛び越え石で、馬と宮人が難渋している場面を、スケッチ画にした。真土区は冊子「万葉の里」に、その絵を掲載している。
私は、その一首を口ずさみ、その絵を見たうえで、二つの石をじっくり眺めてみた。するとたしかに、きらびやかな鞍をつけた馬が、少しためらい、いななきながら、背中の宮人にムチ打たれて渡っていく。そんな夢まぼろしが、まことしやかに見えてくるのである。
奈良側から川に下りて、和歌山側の石段を登りきると、広々とした牧歌的な畑に出た。野小屋を改造した和式・洋式トイレ付きの休憩所(木造2階建て)が一軒ある。20人程度は座って休めそうだ。畑の真ん中には、「万葉の四季」と題した看板が立ち、この近辺で咲くハスやコスモス、ヒマワリなどを写真で紹介している。「生ごみ堆肥で花咲かそう」と書いてあり、真土区の人たちが家庭から出る生ゴミで堆肥を作り、その堆肥で栽培しているらしい。
「橋本万葉の会」の副会長・奥村浩章さんはこういう。「昔、犬養先生がここに来られたとき、『周辺の住宅開発が進んでいる。放置しておくと、きっと、この川は浚渫(しゅんせつ)され、むちゃくちゃにされてしまう』と指摘された。
そこで奥村さんは、「何としても飛び越え石を守らねば」と決心。市内の各種団体に協力を呼びかけ、1993年11月23日、第1回「万葉まつり」を開催した。「なんと市民約2000人が参加し、この周辺を歩きながら、『絶対に開発させない』と、皆、心に誓ってくれました。おかげで飛び越え石は守られ、また、地元のご尽力によって周辺整備も進み、最近では観光客が訪れてくれるようになりました」と喜んでいる。
私は、まるでビデオを巻き戻すように、もう一度、飛び越え石に戻ってみる。上流から写真を撮る。水は川いっぱいに、後から後から流れてくる。その力で水は、二つの石の間で狭められ、勢いよく通り抜ける。淵でしばらく深くよどみ、さらに下へ、浅瀬へとせせらぎ、流れてゆく。川は遠くなるにつれて、木漏れ日にかすみ、やがて見えなくなる。すると、こんどは風が、下流から吹き上げてきた。
石の上に馬のいななく春の昼
(2011年3月11日 水津順風)