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石碑「隅田党発祥の地」建立♪正遷宮の隅田八幡神社
和歌山県橋本市隅田町垂井の隅田(すだ)八幡神社と隅田荘(すだのしょう)ゆかりの武士団・末裔(まつえい)らでつくる「隅田党一族の会」=芋生孝治(いもう・こうじ)会長=は、正遷宮を控えた同神社本殿東側に石碑「隅田党発祥の地」を建立した。芋生会長は「皆様とともに御先祖に感謝し、すべての人々の幸せ祈りたい」と完成を喜んでいる。
わが国最古の国宝・人物画象鏡(がぞうきょう)が伝わる同神社は、紀の川北岸の高台にある。貞観(じょうかん)元年(859)に京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)別宮を勧請(かんじょう)したのが創祀(そうし)で、わが国で最も早く「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」を取り入れている。
「高野山文書」によると、平安時代末期の紀伊国の伊都・那賀地方は、同八幡宮領の隅田荘(すだのしょう)、高野山領の官省符荘(かんしょうぶのしょう)、根来寺領の相賀荘(おうがのしょう)など、伊都・那賀全域で荘園が成立し、旧・隅田村や旧・恋野村、境原、杉尾などが荘域に収められている。
平安時代初期には、長忠延(なが・ただのぶ)氏が、石清水八幡宮の若宮を建立した功績により、隅田別宮の俗別当職(ぞくべっとうしき)=寺務統括職=と、隅田荘の公文職(くもんしき)=荘官=に任官され、次々と子孫に受け継がれる。この隅田荘を外敵から守るべく生まれた武装組織「武士団」が、いわゆる「隅田党一族」のルーツとされる。
忠延の子孫は、北条仲時(ほうじょうなかとき)に仕え、その中の隅田次郎左衛門(すだ・じろうざえもん)は、鎌倉幕府の六波羅探題(ろくはらたんだい)=刑事犯罪の検察・裁判官=に任じられている。
ところが元弘(げんこう)3年(1303)、後醍醐(ごだいご)天皇方は、武士団から政権奪還を目指して討幕。仲時方の武士団は、鎌倉へ落ち行く途中、近江国(おうみこく=滋賀県)で野武士に襲われ、自刃(じじん)・討死(うちじに)する。その総数は隅田一族11人を含む432人。その霊は現地の蓮華寺(れんげじ)に祀られている。
鎌倉時代中期になると、隅田別宮の祭祀権(さいしけん)は、忠延の子孫から祭祀の特権的集団に移行。その構成員の中には、中(なか)、上瀬(こうぜ)、上田(うえだ)、境原(さかいばら)、垂井(たるい)、森(もり)、橋屋(はしや)、山田(やまだ)、兵庫(ひょうご)、中島(なかじま)、芋生(いもう)、渋草(しもくさ)、山内(やまうち)の各氏など、荘内各地の地名を姓とした人々が名を連ねている。
今回、建立された石碑は御影石(みかげいし)製で、高さは台座を含めて約1・8メートル。表には「隅田党発祥の地」、裏には「隅田党は隅田八幡宮の祭祀と隅田荘を基盤とした武士団として知られ、元弘三年(一三三三)六波羅探題北条仲時とともに京都から鎌倉へ落ちる途中、近江国馬場宿に於いて主従四〇〇余人とともに一族十一人が自刃したと『太平記』に見える。室町時代には紀伊守護畠山氏の被官として各地を転戦、その活躍は「畠山記」に記され、城跡も隅田荘内各所に残る。江戸時代には紀州藩の支配下となる」と刻んだ。
同神社の秋祭り・宵宮は10月7日(土)、本宮は同8日(日)。同9日(月)には、20年に一度の正遷宮(しょうせんぐう)奉祝祭が営まれる。
「隅田党一族の会」役員で隅田郵便局長の葛原良昭(かつらはら・よしあき)さんは、「ご先祖に感謝し、お互いに仲睦まじく」と考え、昭和52年(1977)に同会を発足させた。「現在会員は約30人で今回、正遷宮を機会に、当神社のご協力を得て、貴重な石碑を建立させていただきました」と説明。
芋生会長は「毎年1回の例会では、郷土史家の先生方から、隅田八幡神社や隅田荘、隅田党などの詳しい歴史講座を受け、全員、懇親会で歓談しています。この石碑は末代に至るまで大切にし、常にご先祖を偲びながら、人々の幸せを祈っていただきたい」と感無量の表情。
同神社の寺本佳文(よしふみ)禰宜(ねぎ)は「ここは神社東側入口脇なので、多くの参拝・観光客の目にとまり、隅田党の歴史に興味を持ってくれることでしよう」と話していた。
写真(上)は隅田八幡神社に建立された石碑「隅田党発祥の地」を喜ぶ「隅田党一族の会」の芋生会長=右=と役員の葛原さん。写真(中)は国宝・人物画象鏡の伝わる隅田八幡神社。写真(下)は花芙蓉も美しい石碑「隅田党発祥の地」。