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妙楽寺〝仏像ロマン〟講演〜東家で大河内・学芸員

奈良・西大寺の末寺で和歌山県橋本市東家の真言律宗・妙楽寺の観音菩薩立像(木彫)が、昨年夏〝紀ノ川筋最古の仏像〟と確認されたが、この調査にあたった和歌山県立博物館の大河内智之・学芸員は、このほど妙楽寺の地元、東家コミュニティセンターで、「高野山麓 歴史の旅〜東家・妙楽寺の仏像と歴史〜」と題して講演した。大河内・学芸員は満場の地元住民を前に「この古い観音菩薩立像は、多くの人々に守られてきました。妙楽寺は今、再興造営の時期にあり、皆さんも貴重な文化財を後世に残してほしい」と強調した。
この講演会は同市東家の「しんし会」(坂部守哉会長)が主催、「東家しあわせ会」と「東家婦人会」が協賛。毎年開催している「ためになる話を聞く会」に、観音菩薩立像を展示し、講師に大河内・学芸員を招いた。
妙楽寺の観音菩薩立像は、高さ約46センチの総ヒノキ製で、その形状から奈良時代後期〜平安時代初期の作。頭上の大きな髻(もとどり)、穴を開けていない耳たぶ、美しい反りのある姿勢、天衣の裾模様など、奈良・平安の美しい特徴が見られる。また、妙楽寺・本堂は、老朽化のうえ暴風雨により屋根が崩落して、今は完全に撤去されている状態。郵便局のスタンプにもなった鐘楼門も老朽化がひどく、現在、宮大工の手で修復工事中。
大河内・学芸員は、先ず、弘法大師・空海が中国(唐)に渡り、高僧・恵果(けいか)和尚から、密教の神髄を学んで帰国、高野山を開創した、という経緯を説明した。
そのうえで、「妙楽寺薬師院縁起」「紀伊続風土記」「紀伊国名所図会」などを基に、妙楽寺は紀ノ川畔の大森二十六社権現社の西側(相賀荘)に存在し、同寺に空海の姪・如一尼が居住、鎌倉期の真言律宗の高僧・叡尊(えいそん)も相賀荘に来訪。寛正4年(1463)には失火により寺院を焼失したが、10年後の文明5年(1473)には勧進を開始した。当時の勧進状は「紀伊国、伊都郡、高野山麓、相賀荘の妙楽寺は、西大寺末流の三十四カ所のお寺のなかでも随一です。東方瑠璃浄土の主である薬師如来を安置する霊場です」とアピール。さらに「このお寺は吉野の山の桜、花を医王(薬師如来)の前に供し、南は高野の峯の月、光を本尊のともしびにかかげる。西は妹背の川の波、声を仏壇のけいにならし、北は葛城の山の雪、色を堂舎のめかしと添ず」と称賛、力説していることを解説した。
妙楽寺には薬師如来坐像2体と大日如来1体(いずれも平安時代後期の作、和歌山県指定文化財)が伝わり、本堂の老朽化の段階から、この仏像3体を橋本市郷土資料館で保存展示。昨年は、和歌山県立博物館の調査で、観音菩薩立像(橋本市指定文化財)の文化財的価値の高さが確認された。
大河内・学芸員は「いずれの仏像も立派で、一寺に一仏、本尊とすれば十分なのに、妙楽寺では3体も一緒に祀られ、そのうえ同寺創建よりも古い観音菩薩立像が、一緒に祀られてきました。これらの仏像が現存しているのは、寺院の栄枯盛衰の中で、人々が大切に守り続けてきたからです。今はまさに妙楽寺の再興造営の時であり、文明5年の勧進開始の時と同じ状況です。ぜひ、皆さんの力を結集して、貴重な文化財を後世にバトンタッチしてください」と締めくくった。
最後に妙楽寺の岩西彰真住職は、大河内・学芸員と参加者に対し、深く謝辞を述べるとともに、「観音さまの〝観音〟とは、〝音を観る〟という文字で、すべての人々の心の叫びを感じてくれるという意味。心ふさいでいる時、だれかが〝お茶をどうぞ〟とすすめてくれたり、そっと犬や猫が手をなめにきてくれたり…。このように観音さまは、いろんなところで、いろいろと姿を変えて、そばに居てくれると思います」と、観音菩薩の心を紹介。参加者らは、改めて、やさしい表情の観音菩薩立像を拝観していた。
東家区の森下功区長は昨年、県立博物館で開かれた特別展「高野山麓 祈りのかたち」で、大河内・学芸員の講演を聴いて感銘、東家「しんし会」の坂部会長に話し、坂部会長が幹事会に諮って講演会が実現した。森下区長は「皆さんに、妙楽寺と観音菩薩立像の良さを再認識していただいて、とてもよかったと思います」と語った。
写真(上)は映像を使って講演する大河内・学芸員。写真(中)は妙楽寺所蔵の観音菩薩立像。写真(下)は大河内・学芸員の講演を聴く東家地区の住民ら=いずれも写真家・中本義則さん撮影。


更新日:2013年5月31日 金曜日 02:27

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