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戦争の傷跡残る跨線橋~橋本駅、板壁は保存

南海高野線アーカイブス12回目は、南海高野線とJR和歌山線の共同使用駅、橋本駅(和歌山県橋本市)のシンボル跨線橋(こせんきょう)にスポットを当ててみたい。
跨線橋を文字で表すと「線路をまたぐ橋」とわかるが、耳で聞くだけではわかりにくい用語で、一般的には、陸橋と呼ばれている。
橋本駅の跨線橋は古く、南海ホームの跨線橋登り口の標柱には「大正十年十月」「梅鉢工場製作」、JR側には「大正元年九月」「鉄道院」「東京月島機械製作所製造」の銘が刻まれている。ちなみに南海(当時は高野登山鉄道)が橋本まで開通したのが1915年(大正4)3月11日、JR(当時、紀和鉄道)の開通は1898年(明治31)4月11日だった。
跨線橋といえば階段の登り降りがあって、高齢者や障害者にとっては厄介な存在で、早くからバリアフリー化が叫ばれていたが、やっと今年3月にエレベーターを設置した新しい跨線橋に生まれ変わった。しかし、古い跨線橋が解体、撤去されたことで、鉄道文化遺産が一つ消えたことになる。余談になるが、私は跨線橋を橋本川に架け、映画「マディソン郡の橋」のように、再利用すると面白いのに…と、余計なことを考えたこともあった。
ところで、古い跨線橋には決して忘れてはならない出来事がある。戦争中の1945年(昭和20)7月24日午前10時ごろに起きた米軍艦載機2機による機銃掃射だ。燃料を積んでいた貨物車が攻撃され炎上、ホームなどにいた乗客ら5人が銃弾を浴びて亡くなった。解体するまで、跨線橋の板壁には、銃弾で貫通した穴が、生々しく残っていた。
橋本駅の空襲については「未来への伝言」(憲法9条を守る伊都・橋本連絡会)や、「不踏轍(ふとうてつ)・教え子を再び戦場に送るな」(和歌山県教職員組合)、「駅前町家の風情」(絵・文=冨田全紀)、「散歩道VoI、3」(橋本市郷土資料館友の会)の冊子に手記や記録が、また児童文学者・今江祥智著の小説「兄貴」(新潮文庫)にも登場するので紹介しておく。
なお、貫通した板壁は、戦争を語り継ぐ目的で県立橋本高校の近くにある丸山公園に保存され、来月22日から公開される。(写真は3枚とも昨年3月に撮影)
(フォトライター 北森久雄)


更新日:2011年6月22日 水曜日 00:10

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