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橋本駅・米軍銃撃、目撃者は瀧井さん!犠牲者を追悼
太平洋戦争末期、JR・南海「橋本駅」(和歌山県橋本市)の米軍銃撃による犠牲者6人を供養している阪口繁昭(さかぐち・しげあき)さん(92)は、このほど地元の古佐田区民会館で、その目撃者である瀧井茂子(たきい・しげこ)さん(92)と感激の対面を果たした。二人は「会えてよかった」と喜び、近くの丸山公園の「追悼の碑」に手を合わせて、犠牲者の冥福を祈った。
阪口さんは橋本駅米軍艦載機銃撃犠牲者追悼の会の世話人代表。満蒙開拓青少年義勇隊・陸軍二等兵で、シベリア抑留体験者でもある。
橋本駅の空襲は昭和20年(1945)7月24日、米軍・艦載機が、駅舎や松根油(しょうこんゆ)入りタンク積載の貨物列車などに機銃掃射。銃弾を浴びた乗客らが死傷した。
阪口さんは平成23年(2011)、電鉄側と交渉の上、弾痕が残る同駅・跨線橋(こせんきょう)の板壁などを丸山公園に移設保存。独自調査で確認した犠牲者6人の氏名・年齢を刻んだ「追悼の碑」(高さ約90センチ、幅約26センチ、厚さ約10センタ)を建立、供養してきた。
今年7月24日の「追悼の集い」では、新型コロナ禍のため、少人数で供花・合掌。阪口さんは保存していた、当時17歳で銃撃体験した女性「S・Tさん」の追憶文を代読、その思いを奉げた後、「私はS・Tさんを知らない。早くお会いしたい」と話した。
これまで毎年、終戦記念番組を続けている橋本・伊都地域の放送局「FMはしもと」の中野豊信(なかの・とよのぶ)報道部長(72)が、過去資料を調べた結果、「S・Tさん」は「瀧井茂子さん」とわかった。
中野部長は7月29日、古佐田区民会館で、瀧井さんを阪口さんに紹介。瀧井さんが「銃弾跡の残る板壁を保存してくれてよかった」と感謝すれば、阪口さんは「あの銃撃体験者にやっと会えた」と感無量の涙声。
二人は丸山公園に移動し、追悼の碑に合掌。阪口さんは「あの頃、17歳だった方が、今、目の前にいます。喜んでください」と報告。瀧井さんは「やっと場所がわかり、お参りできてよかった」と話した。
「FMはしもと」では、この日の模様について、8月14日午前8時~10時のワイドモーニング(終戦記念特集)で放送する予定。
瀧井さんの目撃体験文(7月25日、本紙掲載済み)は次の通り。
[橋本駅での米軍小型機による機銃掃射]
それは終戦23日前の早朝の出来事でした。当時大阪女子師範1年生(17歳)で、通学のため九度山駅一番の電車に乗り、橋本駅に着くと「警報発令」のため、電車は動かず、みんなは車中やホームで警報解除を待っていた。
突然誰かの「飛行機が来た」の怒鳴り声と機銃音が同時でした。とっさの事で逃げる場もなく陸橋階段の裏に臥せました。
飛行機(小型機)が旋回しながら「パンパン」と撃ちまくる音、銃弾がものにあたる音、私の背中に熱い物がばらばら当たります。(機銃弾の「薬きょう」だったのでしょうか)。
「今度は本物が当たるのではないか」「弾が当たれば終りや」との思いが頭をよぎりました。
機銃掃射西から東に向かってうちまくっている感じでした。
一番ホームに停車していた貨物列車も掃射を受けていて、積まれていた「松根油」(松の根から取り出した油でガソリンの代替燃料という話もあった)のドラム缶が燃え始め、すごい爆音と真っ赤な炎が舞い上がる。舞い上がったドラム缶が落下して屋根に落ち、瓦が飛び散る音。
「もうおしまいやわ」との思いで、あきらめかけた時、爆音が遠ざかりやみました。
「今逃げないと」、私は起き上がろうと頭をもたげました。隣に臥せていた体格のいい男性がじっと臥せたきり動きません。左大腿部から血が吹き出ています。
私は助けを呼ぶべきだったのでしょうが…、それは後に冷静になって思ったことでした。
その時は「早くこの場を逃れないと、又やってくる」、そのことばかりでした。
立って逃げようとしましたが、あまりの恐ろしさに足が立ちません。俗に「腰が抜ける」と言いますが、あれは嘘です。膝関節に力が入らず、立てない、歩けないのです。
私は這って階段を昇り、一番ホームまで来て足
が立つようになりました。
男性が仰向けに倒れ、腹部からピンク色のものが「グニャッ」と流れ出ていたのを覚えています。
それをしり目に、足は何故か西の踏切を渡り、母校橋本高女にたどり着き、先生や在校生の皆と北山に避難し、お弁当を食べて時を過ごし、身も心も平穏に戻ったことでした。(10年前の手記)。
写真(上、中)は対面を喜ぶ瀧井さん=左=と阪口さん=古佐田区民会館で。写真(下)は追悼の碑の前で犠牲者の冥福を祈る瀧井さんと阪口さん=いずれも中野豊信部長・撮影。