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戦友の遺骨よ!達磨画で訴え~シベリア帰りの阪口氏
「戦友たちの遺骨を、早く祖国に帰して」――。太平洋戦争でソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され、九死に一生を得て帰国した、和歌山県橋本市傷痍軍人会会長・阪口繁昭(さかぐち・しげあき)さん(91)は、知り合いの達磨(だるま)画家・渋田忠三(しぶた・ちゅうぞう)さん(79)に、その「祈り」を表現した達磨の墨絵を描いてもらった。最近、マスコミが「シベリア抑留者の遺骨600人分取り違う?」と報じる中、市民から講演依頼を受けている阪口さんは、「この達磨絵を持って、戦友への思い、平和の尊さを訴えたい」と話した。
阪口さんは昭和19年(1944)、満蒙開拓青少年義勇隊に入隊。すぐ陸軍二等兵を命じられ、中国とソ連の国境で転戦。左後頭部に被弾して左耳の聴力を失った。
同20年(1945)8月22日、ソ連の飛行船が「日本の敗戦」を告げて、阪口さんらをシベリアに強制抑留。マイナス40度にもなる極寒の地で、鉄道建設のレール運搬や、枕木にする白樺(しらかば)伐採作業などに酷使された。
多くの戦友は、一切れのパン食と、桁外れの過重労働で、祖国・家族を思いながら逝去。阪口さんは、戦友の亡骸(なきがら)を、森の中に丁寧に埋葬。それも土ではなく、泣きながら、雪をかけたという。
最後に阪口さんは、決死の覚悟で、1個師団・80人の日本人捕虜の「戦友名簿」を、ソ連兵に極秘で作成。見事持ち帰って、ご家族には可能な限り「戦友の存命」を伝えてきた。
今回、渋田さんが製作した達磨画は、縦横35×45センチの、横画と縦画の各1枚。いずれも「祈り 凍結するシベリアで 放置されている戦友たち 遺骨を一日も早く ふるさとへ!! 念願いたします 阪口繁昭」としたため、達磨画の眼玉は、ぎょろりと宙をにらんでいる。
10月11日(金)には、橋本市高野口町の〝ふれあいサロン〟で、高齢者約20人を対象にした、阪口さんの講演会「シベリア抑留生活」が予定されている。
阪口さんは「この達磨さん、腹から怒っているでしょう。私も、いまだ戦友の遺骨が、祖国に帰れないことに…。これからは、この達磨画をご覧いただきながら、戦争の悲惨さ、平和の尊さを訴え続けます」と語っていた。
写真(上)は渋田さん作の達磨画を披露する阪口さん=橋本市古佐田の自宅で。写真(中)は達磨画2枚のうち縦の達磨画。写真(下)は講演会で日本人捕虜の「戦友名簿」を披露する阪口さん。