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「戦友供養したい」阪口さん(90)シベリア抑留講演

太平洋戦争中、ソ連軍の捕虜とされ、九死に一生を得て帰国した和歌山県橋本市傷痍軍人会会長・阪口繁昭(さかぐち・しげあき)さん(90)は、橋本市図書館=井澤清(いざわ・きよし)館長=主催の図書館講座で、「凍結のシベリアでの抑留生活」と題して講演した。
阪口さんは高齢ながらマイク片手に立って話し、友人の元紀北工業高校教諭・池永恵司(いけなが・けいじ)さん(88)が、シベリアで苦闘する日本人の様子を描いた絵や写真をスクリーンに映した。
阪口さんは昭和19年(1944)、満蒙開拓青少年義勇隊に入隊。すぐ陸軍二等兵を命じられ、中国・ソ連の国境で転戦。左後頭部に被弾して左耳の聴力を失った。「当時、わが国は食糧難であり、私は食糧増産を志したのに、実は手旗信号や馬、兵器の扱いを叩きこまれた」「被弾した際、麻酔はなく、薬は赤チンのみ。それでも軍医の手術で助かった」と述懐した。
同20年(1945)8月22日、ソ連の飛行船が「荒城の月」の曲を流し、日本の敗戦を告げ、投降を迫り、捕虜にされた。とくに冬のシベリアは氷点下50度前後と厳しく、「石炭掘りや白樺の伐採などに酷使された」「食べ物はパン一切れしかもらえず、多くの戦友を亡くした」と悔やんだ。
同22年(1947)12月、阪口さんは帰郷する。その直前、阪口さんら1個師団・80人の日本人捕虜が元気に生きていることを、故郷に知らせる「戦友名簿」を、ソ連兵に極秘で作成し、極秘で持ち帰ったことを紹介した。
阪口さんは「ソ連兵のセメント袋を切り取り、日本兵が隠し持っていた鉛筆(長さ約3センチ)で、全員の出身地、氏名を記帳した」「この戦友名簿を自分の脹脛(ふくらはぎ)に貼り付け、ゲートルで巻いた」「ソ連兵にバレたら銃殺される。決死の覚悟でナホトカ港で身体検査を受けるが、私は若かったので、ソ連兵から、おい少年、早く行け!と、いとも簡単に通され、助かった」と話した。
阪口さんは、復員船で九州・佐世保港、列車で郷里・橋本に帰郷。戦友名簿を頼りに、電話や家族宅訪問などで、可能な限り戦友の存命を伝えてきた。
「シベリアには今なお、多くの日本兵が眠っています。一日も早くご遺体をふる里に還し、供養したいです」と祈って締めくくった。
阪口さんは「戦友名簿」を全員に披露。参加者は茶色の古い紙に、鉛筆で小さく書かれた戦友たちの名前に見入り、戦争の悲惨さ、平和の尊さをかみしめた。
写真(上)はシベリア抑留生活を話す阪口さん。写真(中)は戦友名簿を紹介する阪口さん。写真(下)は会場に展示されたシベリア抑留生活の絵や写真に見入る参加者たち。


更新日:2018年7月24日 火曜日 00:00

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