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ふるさと歌い兵士は死んだ…阪口さん涙の戦場報告
太平洋戦争中、ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され、九死に一生を得て帰国した和歌山県橋本市傷痍軍人会会長・阪口繁昭さん(85)は、橋本市中央公民館主催の市民講座で、自らの戦場体験を報告し、阪口さんの「二度と戦争を繰り返さないでほしい」という心底からの願いが、聴講者の共感を呼んでいた。
阪口さんは昭和19年(1944)、満蒙開拓青少年義勇隊に入隊したが、すぐに少年兵として中国・ソ連の国境で転戦。頭に被弾して左耳の聴力を失った。同20年(1945)8月22日、ソ連の飛行船が〝荒城の月〟の曲を流しながら、日本の敗戦を告げ、投降を迫って、捕虜にされた。シベリアでは多くの戦友を失い、過酷な労役に耐えて、同22年12月、万死に一生を得て復員した。
この日の市民講座で、阪口さんは「戦場体験~中ソ戦~少年兵としての報告」と題し、本物そっくりのシベリアの〝黒パン〟や、決死の覚悟で持ち帰った〝戦友存命手帳〟などを披露。
県立紀北工業高校・電気科の元教諭・池永恵司さん(83)も、阪口さんから依頼を受けて、シベリアで戦友の遺体をソリで運んだり、雪中、岩塩を運搬したりする日本兵の写真など、計44枚をパソコンでスクリーンに投影。阪口さんは生々しい写真を見てもらいながら、当時の模様を赤裸々に報告した。
例えば、阪口さんの証言をもとにして、和歌山県教育委員で童話作家の佐藤律子さんが作ってくれた〝黒パン〟を披露しながら、「シベリアでは零下30度の猛烈な寒さの中、石炭堀りや鉄道建設、森林伐採など重労働を強いられ、食べ物は、このような〝黒パン〟の、それも、たった一切れと塩スープ1杯だけ。多くの戦友が飢えと寒さで息絶えて、凍土の上に野積みされました」と、その過酷な生活を述懐。「私は岩塩を運ぶ労役の際、ポケットに岩塩を隠し、松林の松葉をむしり取って、岩塩をまぶし、噛みに噛みつぶしてビタミンを吸収しました」と、必死で生き抜いた有様を証言した。
また、「元教員だった若い兵士が、厳しい労役から戻ると、うわごとのように童謡〝ふるさと〟を歌っている。鈴木と言う名の中隊長が〝これはおかしい。みんな、一緒に歌ってやれ〟と命令。私たち全員で繰り返し歌ったものの、だんだん涙声になり、歌にはならなかった。それでも若い兵隊は大変喜んで、明け方には〝ありがとう〟の言葉を残して亡くなりました」と話し、「その遺体は、表の凍土に運び、他の遺体の上に積み上げていく。その辛さというものは、今なお忘れることができず、寝ても覚めても辛いです」と語った。
さらに〝戦友存命手帳〟を披露して、当時、戦友たちの間から「誰かが日本に帰れたら、われわれが元気に存命していることを、ぜひ家族に伝えてほしい」と言う声が上がり、旧・ソ連兵が使っていたセメント袋をひそかに入手。1個師団約80人の出身地、氏名を記入し、「戦友存命手帳」を作ったことを証言した。
阪口さんは、「この貴重な手帳を、足のふくらはぎに張り付け、ゲートルでしっかりと巻き付けて、帰国の途についた。これは旧・ソ連兵に見つかると、即、銃殺される決死の行動。例にもれず、阪口さんは、ソ連ナホトカ港で、旧・ソ連兵から身体検査を受けたが、阪口さんは当時、うら若い少年。旧・ソ連兵は〝おい少年、早く行け〟と、うそのように簡単に通され、復員船で九州・佐世保港、そして列車で郷里・橋本に帰還することができた」と説明。「戦友の実家の電話を片っ端から調べ、戦友が元気でいることを伝えました。家族は、それはもう大喜びでした」と語った。
聴講者らは、兵士が〝ふるさと〟を歌って息絶えた話には、シーンと聴き入って目頭を熱くし、報告が終わると、〝戦友存命手帳〟を手にとって眺めながら、戦争の残酷さをしみじみと感じている様子だった。
今回、初めて阪口さんの戦場報告のアシスタント役を務めた池永さんは、「シベリア抑留生活の各シーンを写真で見ていただいて、阪口さんの話もよくわかったと思います」と述べ、「今後も〝黒子役〟として協力したい」と話した。
阪口さんは「どんなまことしやかな理屈を並べたところで、人と人とが、お互い命を奪い合うことなんて、断じて許されるものではありません。私の報告を聞かれた方々は、ぜひ、次世代の方々に戦争の悲惨さを語り継いでいただきたい」と訴えていた。
写真(上)は戦場報告をする阪口さん。写真(中)は阪口さんの戦場報告に集まった大勢の聴講者たち。写真(下)は今回の報告を控え、準備を進めた阪口さん(右)と池永さん。