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順教尼の書画、火難免れる~〝逗留座敷〟は全焼
和歌山県九度山町九度山で5月11日に起きた商店・民家火災で、両腕のない障害を克服した口筆の書画家・大石順教尼(おおいし・じゅんきょうに、本名=よね=1888~1968年)が逗留(とうりゅう)した、「旧・萱野家(かやのけ) =大石順教尼の記念館」の離れ座敷が全焼した。町教委の13日までの調査によると、廊下続きの母屋は、辛うじて類焼を免れ、順教尼の書画作品や順教尼の遺影、道具類の一切は無傷だったことがわかった。ただ、同館で開催中の企画展「心で描く仏の世界~順教尼の交友の歴史と仏画展」(~5月31日)は「火災類焼により、当分の間、休館とします」と張り紙。萱野正巳(かやの・まさみ)館長は「この度の火災では、順教尼の書画作品の無事が、唯一の救いであり、これからもしっかり保存・展示に取り組みたい」と語った。
火事は11日午後1時半ごろ、近所の民家から出火、商店・民家7棟計約700平方メートルが全半焼した。この火事で、かつて順教尼が逗留した、同家の母屋西側の廊下続きの離れ座敷(大正時代末期の建造、木造瓦葺き平屋約30平方メートル)が全焼したが、風呂場、洗面場を併設する渡り廊下を含む母屋は無事だった。
順教尼は、大阪・道頓堀生まれ。17才の時、養父の狂乱により、両腕を切り落とされた。後にカナリアがヒナにえさを与えている姿を見て、「両手がなくても、物事はできる」と悟り、書画の道を志望。
1933年に萱野館長の祖父、萱野正之助・タツ夫妻が菩提親となり、高野山で出家得度した順教尼が、萱野家=元・不動院=にたびたび逗留(とうりゅう)。京都・山科の可笑庵で80歳の生涯を閉じるまで、書画の道を究め、障害者の社会復帰に尽くし、「障害者の母」として敬愛されている。
同館では、順教尼が残した書画、滝に打たれる自身の写真、使用した硯石(すずりいし)、墨、筆、メガネなど、おびただしい数の遺品を所蔵していて、5月9日から、同館の町指定文化財5周年記念企画展「心で描く仏の世界~順教尼の交友の歴史と仏画展」を開催。
順教尼直筆の掛け軸「観音座像」や「三仏飛来」、書の「佛」、さらに順教尼が身に着けた作務衣や帯、瀑布に打たれる写真とともに、同家に伝わる江戸時代後期の画家・狩野栄信(かのう・えいしん)の三連幅「寿老人」「松と鶴」「竹と水」などの絵を展示していた。
ところが、近隣の商店・民家火災で、火の手は旧・萱野家に急迫。近くで食事中の萱野館長は直ちに同館へ戻り、順教尼の書画作品などの搬出を指揮。駆け付けた町職員や地元の人たちが、展示品はじめ、順教尼の保存作品のすべてを、東隣の遍照寺へリレー搬送した。
火はついに母屋西隣の離れ座敷に燃え移り、同座敷は瞬く間に全焼し、中にあった書院屏風や欄間、障子の一部を焦がしたものの、火は辛うじてここで鎮火、順教尼の作品と母屋については、大きな難を免れた。
かつて、この離れ座敷で、見事な書院屏風、書院障子に感銘を受けたことのある、紀州高野組子細工(和歌山県の伝統的工芸品)の制作者・池田秀峯(いけだ・しゅうほう)さんは、焼け残った順教尼の書画作品を丁寧に洗い清めながら、「順教尼さんの起居した、離れ座敷が全焼したことは、きわめて残念ですが、順教尼さんの大切な作品は、見事救われました」と安堵していた。
この離れ座敷を今後どうするかについて、九度山町の田口勝(たぐち・まさる)教育長は、「離れ座敷の屋根の一部は、焼け落ちていますが、建物の骨組みは残っています。順教尼が逗留した離れ座敷であり、今後、どうすべきか、専門家のご意見を聴きながら、岡本町長と相談して、決めることになります」と話していた。
写真(上)は全焼した旧・萱野家の離れ座敷と焼け残った順教尼の屏風や書院欄間など。写真(中)は全焼した離れ座敷の外観。写真(下)は火難を免れた順教尼の作品=企画展での一コマ。