ニュース & 話題

千里御前850年ご遠忌~学文路苅萱堂で冥福祈る

平安時代の親子哀話・石童丸物語の女性ヒロイン千里御前(ちさとごぜん)の「千里御前・没後850年ご遠忌(おんき)」が、命日の3月24日、その菩提寺・西光寺(さいこうじ)=田野賢朗(たの・けんろう)住職=の学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)で営まれた。創作オペラ「石童丸物語」公演を続けているアマチュア劇団「はしもとふるさとオペラ」メンバーや、地元区民ら約50人が集まり、千里御前の「御霊(みたま)安かれ」と祈った。
「石童丸物語」は、筑紫の国(福岡県)の領主が、苅萱道心(かるかや・どうしん)と称して高野山で修行。道心が出家後、2番目の夫人(側室)・千里が生んだ一子・石童丸が、父と会いたさに、千里とともに高野山をめざす。しかし、女人禁制のため、母を山麓の宿「玉屋(たまや)」に残し、道心に出会うが、修行中の道心は父と名乗れない。落胆した石童丸が「玉屋」に戻ると、千里は心労のために急逝。やがて石童丸は道心の弟子として、仏道修行するが、生涯、父子の名乗りはできなかったというストーリー。
この日、田野住職が読経し、アマチュア劇団の小嶋彩子(こじま・さいこ)さんら5人を含む、大勢の関係者が合掌した。法要の後、神谷重廣(かみたに・しげひろ)学文路区長が「きょうは大勢お集まりいただき、ありがとうございます。学文路苅萱堂は、区の歴史、文化に関りが深いので、区としても協力していきたい」と挨拶した。
また、学文路苅萱堂の顧問で、創作オペラ「石童丸ものがたり」原作者の岩橋哲也(いわはし・てつや)さんは、昨年秋「石童ものがたり」公演が18回目を数えたことに関連して、「皆さんのご公演のお陰で〝父子の情愛〟の深さを、広く知ってもらえました。また区民の方々の浄財のお陰で、荒廃していた学文路苅萱堂を再興することができました」と、涙を浮かべて謝辞を述べた。
また「千里御前は永万元年(1165)3月24日、学文路の宿・玉屋で、32歳で逝去されました。学文路苅萱堂の庭には、千里御前のお墓、つまり〝健泰妙尊大姉(けんたいみょうそんだいし)〟と刻んだ宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。その両脇には説明書きの板碑(いたひ)、玉屋の庭にあった子抱石(こかかえいし)を備えています」と説明。
さらに「領主と妻、千里御前の3人の館(やかた)があったとも言われている福岡県太宰府市の〝苅萱の関跡(かるかやのせきあと)〟について、現在、市の文化遺産にする動きがあり、私はこの宝篋印塔の写真を送付しました。ここには、まぎれもなく高野山麓に千里御前の菩提寺が存在することを証明しました」と話し、「今後も親子の情愛の大切さを次世代に伝えていきたい」と締めくくった。
この後、苅萱堂の縁側から「餅まき行事」が行われ、うららかな春空に紅白の餅が飛び交うと、つきたての目出度い餅を区民らが夢中で受けとめていた。
感謝の気持ちを込めて参拝した小嶋さんは、「きょうは天気もよく、気持ちの良いご遠忌に参加することができました。来年は高野山開創1200年大法会の年なので、その協賛イベントに、できれば創作オペラ〝石童丸ものがたり〟も参加したいです」と、希望を話していた。
写真(上)は学文路苅萱堂で営まれた「千里御前850年ご遠忌」の法要風景。写真(中)は学文路苅萱堂の庭にある千里御前の墓碑「宝篋印塔」を紹介する岩橋さん=墓碑の左は板碑、右は子抱石。写真(下)は千里御前850年ご遠忌法要で行われた紅白の餅まき。


更新日:2014年3月25日 火曜日 00:01

関連記事

ページの先頭に戻る

  • 標準
  • 大
  • RSS
  • サイトマップ

検索

過去の記事