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橋本駅空襲の犠牲者6人〜23日、追悼の集い
太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市古佐田のJR・南海「橋本駅」で、米軍機の機銃掃射により、犠牲になった市民6人の「追悼の集い」が、7月23日(火)午前9時から、地元の丸山公園の〝追悼の碑〟前で営まれる。昨年夏、犠牲者4人の「追悼の集い」が営まれた後、新たに犠牲者2人が判明したので、今年は計6人の犠牲者の慰霊を行うことになる。「米軍銃撃犠牲者追悼の会」の世話人代表・阪口繁明さん(85)は「ご参列はどなたでも自由ですので、ともに犠牲者の冥福を祈り、戦争を繰り返さないことを誓いましょう」と呼びかけている。
橋本駅の空襲は、昭和20年(1945)年7月24日朝、米軍・艦載機が飛来し、駅舎や停車中の松根油(しょうこんゆ)入りタンクを積んだ貨物列車に機銃掃射を浴びせ、爆発したタンクが大空に舞い上がり、駅構内で銃弾を浴びた市民が犠牲になった。
丸山公園は、この橋本駅が見渡せる小高い古佐田丘にあり、追悼の碑には平林靖敏(ひらばやし・やすとし)さん(15)、恋中圭一(こいなか・けいいち)さん(47)、山本稔(やまもと・みのる)さん(38)、 菅野廣雄(すがの・ひろお)さん(19)の4人と、昨年夏の「追悼の集い」の後に判明した海立節子(かいだて・せつこ)さん(20)、坂上貢(さかうえ・みつぐ)さん(14)の2人の氏名・年齢が刻まれている。
また、銃弾跡が残る橋本駅・渡線橋の板壁と、渡線橋の登り口にあった「大正元年九月 鉄道院 東京月島機械製作所製造」と刻まれた標柱や、橋本駅・空襲の模様を描いた水彩画「駅前町家の風情」(冨田全紀さん著の挿絵)を掲示している。
追悼の会の調査によると、新たに判明した海立さん(同市矢倉脇)は、当時、南海・橋本駅に勤務。乗降客の誘導にあたっていたが、プラットホームで銃弾を浴びて犠牲になった。また、阪上さん(同市柱本)は当日、学徒動員で松根油(しょうこんゆ)しぼりを担当。橋本駅で空襲を受けた際、貨車の下に隠れたが、銃弾が当たってしまった。
昨年夏の「追悼の集い」の模様を新聞・テレビで知った海立さん、坂上さんの2人の遺族から、追悼の会に連絡があり、阪口さんの調査で、海立さんは遺族宅らあった位牌への記述、坂上さんは橋本市史に掲載された学徒動員・殉職者の記述から、犠牲者に間違いないことを確認した。
このほど、阪口さん宛てに届いた、坂上さんの遺族からの手紙には、坂上さんの姉・和代さん(かつらぎ町妙寺)が「貢 兄さんの死」と題し、「記憶をたどって 平成20年7月 病床にて記す」と題した、次のような一文が同封されていた。
「昭和二十年七月二十四日 今日も暑い日になりそうだ。紀見峠の駅には 通学の男女学生が下り電車を待っていた。駅員の馬場さんと松山さんは、私たちを兄弟のように、たしなめたり、おだてたり。駅は溜まり場で、学生らも兄弟のように声をかけあう。
突然、サイレンの音、学校は空襲警報で生徒を帰宅させることになっていたので、学校に向かわずに帰宅。朝来た道を戻り、柱本国民学校の前までくると、近所の久保さんが『和代ちゃん…』と口ごもって『今お父さんがお母さんを自転車に乗せて下ったで…』。悪い予感で、胸騒ぎした。
兄は、朝早く九度山に行くと家を出た。兄達 伊都中学三年生は、学徒動員で松根油をしぼりに九度山へ行っていた。たまたま、橋本駅前の広場には出征する兵隊さんの見送りで、沢山の人が集まられていたとか。
アメリカの艦載機が機銃掃射してきたとき、駅にいた兄は貨車の陰に隠れたようだが、運悪く弾に当たりこの世を去った。十五歳の生涯だった。兄と私は仲良しだった。喧嘩などしたことなく、やさしかった。学校で両親あての遺言状を書かされたのが残っている。
焼け付くような暑さの中、担任の大歳先生がクラスの生徒十五・六人連れて葬儀に来て下さった。軍服のような制服を着た兄の友達は、皆 無言だった」
阪口さんは「この一文から、戦争の愚かさ、遺族の悲しみが伝わってくる」と話し、全文(パソコン打ち)を50枚コピー、「追悼の集い」で参列者全員に配布する。当日は、応其寺の松井隆憲(まつい・りゅうけん)住職が読経、参拝者が焼香、6人の冥福を祈ることになる。阪口さんは「どうぞ平服でご参列ください」と言っている。小雨決行。
写真(上)は追悼の集いが営まれる丸山公園の地蔵菩薩立像前=追悼の碑や銃弾跡の板壁などが建立されている。写真(中)は遺族や関係者に案内状を書く阪口さん。写真(下)は犠牲者6人の氏名・年齢を刻んだ追悼の碑。