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橋本駅空襲〝追悼の碑〟除幕~「平和守る」誓い

太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市古佐田のJR南海・橋本駅で、米軍機の機銃掃射により、犠牲になった市民4人の〝追悼の碑〟が地元の丸山公園・地蔵菩薩前に新設され、命日の7月24日、遺族や関係者らが集まり「追悼・除幕式」が行われた。
米軍銃撃犠牲者追悼の会(阪口繁昭代表ら有志5人)主催。〝追悼の碑〟は同会が設置。高さ53センチ、幅56センチ、厚さ10センチの御影石製で、そこには「平林靖敏十五才 恋中圭一四十七才 山本稔三十八才 菅野廣雄十九才」と、犠牲者4人の氏名・年齢が刻まれ、あと2人いるとされる犠牲者については、氏名・年齢などが不詳のため、判明した際に備えて、余白部分を残した。
また、同地には昨年、銃弾跡が残る橋本駅・渡線橋の板壁と、その登り口にあった「大正元年九月 鉄道院 東京月島機械製作所製造」と刻まれた標柱を移設。空襲の模様を描いた水彩画「駅前 町家の風情」(冨田全紀さん著の挿絵)を掲示した。
この日、犠牲者4人の遺族や空襲を目撃した冨田さんや池永恵司さんら関係者約50人が参列。木下善之市長が追悼の碑を除幕した後「追悼の碑は、板壁や標柱とともに、悲惨な歴史を伝えるもので意義深い。このような戦争を繰り返さず、平和を守り抜く決意を新たにしています」と追悼のことばを述べた。
地元の応其寺の松井隆憲住職が読経する中、遺族や関係者が次々と焼香、追悼の碑に花を供えたあと、県立橋本高校吹奏楽部や、市民音楽グループ「ベローズフェロー」(アコーディオン)や「のぞみハーモニカクラブ」メンバーが、それぞれ〝追悼の調べ〟を演奏し、冥福を祈った。
平林さんの弟の久長さん(78)=橋本市橋本=は「兄は当時中学2年で、空襲警報が解除され登校、駅で腹部に被弾しました。私は紀ノ川の竹薮に逃げ込んで助かりましたが、兄を亡くしたことが残念でなりません」と述懐。「ただ、このように〝追悼の碑〟が建立されたことは誠にうれしく、皆さまに感謝申し上げ、今後もお参りさせていただきます」と語った。
空襲は1945年(昭和20)7月24日午前10時頃、米軍・艦載機2機が飛来。橋本駅の駅舎や2番線上りホームに停車中の貨物列車に機銃掃射を浴びせ、積荷の松根油(しょうこんゆ)入りドラム缶が爆発。駅構内にいた人たちが犠牲になった。
写真(上)は木下市長の手で除幕された「追悼の碑」。写真(中)は焼香する犠牲者の遺族と列席の方々。写真(下)は「追悼の碑」に花を供える遺族の菅野康雄さん。


更新日:2012年7月24日 火曜日 17:44

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