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国城山で雲海や菜の花~年の瀬の古里も見えて

征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ=758~811)ゆかりの、ここは和歌山県橋本市の国城山。頂上の国城神社の両脇や、参道に立つ紺色の奉納旗は、しっとりと雨に濡れていた。
平成24年(2012)12月30日の昼下り。神社には、奉納旗だけではなく、しめ縄飾りや、大釜の備え付け、テント張りも整っている。まさに迎春の風景であった。
標高552メートルの国城山。展望台から見渡すと、あたりは雨雲におおわれ、手前の樹林のシルエットが見えるだけ。雲海など、まったく望めない。「やっぱり、不運なんかねえ」と私。「いやいや、しばらく待つべし」と、フォトライターの北森久雄さん。元橋本市職員の金井好明さんも、「そうそう」と頷きながら笑っている。
しばらく待つと、確かに雨雲が薄くなり、橋本の市街地の一部がぼんやりと見えてきたが、それも、まばたくうちに雨雲にかき消された。
私たち三人は、つい先程まで、国城山の山麓のREST&CAFE「志野」で、お茶を飲んでいた。私と北森さんは、普段から、仕事の打ち合わせで、よくこの店に来る。すると、先着の金井さんは、友人のA氏と二人で談笑しているので、私たちもそこに同席した。
みんないい加減、年輩者なのに、終始、少年のような話題で盛り上がる。しかし、そのA氏も、闘病の末、つい先日、77歳の生涯を閉じた。
したがって、この日は、これまでの四人ではなく、三人でお茶を飲んだ。そのとき、店の窓から、紀の川の対岸に聳える国城山を見上げると、雨雲の上に、山頂が抜きん出ている。私が「ひょっとしたら、山頂から雲海が望めるのかも」と首をひねる。「おお、そうやね。行ってみよか」と北森さん。即座に意気投合して、私のマイカーで国城山頂まで、やってきたのだった。
山頂から、期待の雲海や、下界が望めないのは、多少悔しかったが、雨が次第に強くなるのだから仕方がない。三人とも、あきらめて、車で下山する。100メートルほど下ると、北森さんが「そこを左へ」と言うので、わき道にそれると、地元で自然保全活動をしている〝プロムナード国城〟が作ったという展望台(木製)がある。そのとき「ほらほら、見えてきた」と北森さん。「ほんまや、雲がすけてきた」と金井さん。私と北森さんは、車から降りて、必死でカメラのシャッターを切った。
道路のわきには、季節はずれの、一株の菜の花が満開。その向こうには、ひろびろとした雲海。雲海からは三石山が頭を出し、雲の途切れたところからは、市街地が見える。あれが紀の川の橋本高野橋、あれが市役所、警察署、伊都振興局。もっとも、私たち三人の家は見えないが、あのあたりが北森さん、そのあたりが金井さん…。そして、あの山の向こうの高齢者施設には、脳こうそくで倒れ、重度障害者となった私の妻がいる。この紀の川流域の、箱庭のような街で、今年も1年間、泣いたり笑ったりした。
私たちが、一応の写真も撮れて、車に戻ると、北森さんも、金井さんも「よかった」「まったく」と、にっこり笑う。しばらく後には、私たちは下界に戻っていて、ふたたび国城山を見上げると、雨雲は刻々と消えていく。「いやあ、登ってよかった」「いい歳末や」「また来年もよろしく」などと言いながら、淡々と別れた。
亡くなったA氏の話題は、三人とも一切口に出さなかったが、私は「もう少しいてくれたら、四人で国城山に登れたのに」と思っていた。しかし、私よりも、はるかに親交の深かったお二人は、きっとA氏とともに国城山に登り、A氏と幾星霜を共に過ごした古里を眺めていたに違いない。
二人して雲海を見る年の暮れ
(水津順風)
写真(上)は国城山に咲いた季節はずれの菜の花。写真(中)は奉納旗が立ち大釜が据えられ迎春準備が整った国城神社。写真(下)は雲海が薄れ、見えてきた橋本の市街地。


更新日:2012年12月31日 月曜日 09:11

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