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名刹・妙楽寺の屋根が崩落~菊花互など残し撤去へ

    平安時代のたたずまいを残す妙楽寺山門(その奥が屋根が崩落した本堂)
    平安時代のたたずまいを残す妙楽寺山門(その奥が屋根が崩落した本堂)
    平安時代のたたずまいを残す妙楽寺山門(その奥が屋根が崩落した本堂)
    ほぼ半分が崩落した妙楽寺本堂の貴重な互屋根
    完全に互屋ねが崩落した妙楽寺の庫裏
    完全に互屋ねが崩落した妙楽寺の庫裏

菊花紋入り互などを配した平安時代のたたずまいを残す名刹(めいさつ)、和歌山県橋本市東家3丁目3番24号、真言律宗・丹生山薬師院「妙楽寺」(岩西彰真住職)は、先の台風12、15号の豪雨に浸食され、11月上旬、ついに本堂と庫裏の屋根が崩落した。同寺役員は10日夜、善後策を協議した結果、とりあえず貴重な菊花紋入り互や、古い建材を保存し、建物自体を撤去することにした。
「丹生山薬師院妙楽寺縁起」によると、同寺は820年(弘仁11)、嵯峨天皇の勅願で弘法大師・空海が創建.続風土記では、創建時の建物は南の大森26社権現社の西隣にあり、広大な敷地に七堂伽藍(しちどうがらん)が整い、淳和天皇(786~840)の時、この寺を空海の姪如一尼が賜り、以来、尼寺として存続した。
しかし、戦国時代には、織田信長の高野山攻めのあおりを受けて焼失。何度か再興を繰り返したが、本堂と本尊・薬師如来座像、脇侍(わきじ)・大日如来座像、同・薬師如来座像の3体、さらに山門については、焼失を免れてきた。その古さは700年以上と推定されている。
江戸末期には〝一堂一僧坊〟だけとなる荒廃ぶりで、寺領は上地令により政府に召し上げられ、無住寺、無檀家となり、山門、本堂、庫裏すべて老朽化。本堂が雨漏りするようになり、所蔵する仏像の損傷が気遣われた。
そこで地元の東家区(東又良一・当時区長)の働きかけで、和歌山県は2005年5月、この3体(橋本市郷土資料館に保存)について、重要文化財に指定した。本堂や山門については、文化財に指定すると、修復費用が莫大にかかる理由からか、指定されないまま現在に至っている。
このため、本堂は屋根互が風化して壊れ、ぽっかり大きな穴が開き、11月上旬には、本堂の屋根が著しく崩落して拡大、東隣の庫裏の屋根は、完全に抜け落ちてしまう始末。そこで、同寺役員と東家区長らが善後策を協議した結果、12月には、菊花紋入りの貴重な互や、本堂の欅(けやき)の柱、梁(はり)などを保存する一方、本堂と庫裏を取り壊し、処分することにした。本堂の再建や、老朽化した山門の修復などについては、改めて関係者が集まり、協議することになっている。
東又・当時区長は、区民への〝お知らせ〟の中で「名山が朽ち果てるのは、いかにも惜しい。一日も早く(薬師如来座像など3体を)本堂に設置でき、皆様がお参りできる事を念じてやみません」と記し、同寺役員の奥村浩章さんも「他の宗派と違って、同寺には昔から檀家がなく、収入がないので、寺の復興や維持は、簡単ではありません。改めて、皆さんとともに智恵を絞りたいと思います」と語った。
無住寺から復活し、今は4代目となった岩西住職は、現在、高野山真言宗総本山・金剛峯寺の松長有慶座主・管長の随行を務め、修行を重ねる一方、自坊北隣の自宅で2か月に1回、善男善女を集めて法話を述べるなど、衆目を集めている。
岩西住職は11月10日、本堂わきの庭木を剪定しながら、「先の台風・豪雨で、雨水が建物に浸透し、その重みで崩落したようです」と、力なく本堂と庫裏を眺めていた。
なお、旧郵政省は1978年、橋本郵便局の〝風景日付印(風景入り消印)〟に、国宝かそれに準ずる風景として「妙楽寺山門」を選び、その風景は大勢の郵便マニアに愛されている。


更新日:2011年11月11日 金曜日 20:00

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