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平和祈念映画「山本慈昭 望郷の鐘」に人々感激

〝中国残留孤児の父〟と讃えられた僧侶・山本慈昭(やまもと・じしょう)の生涯を描いた、戦後70年平和祈念映画「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓の落日」=山田火砂子(やまだ・ひさこ)監督、内藤剛志(ないとう・たかし)主演=が、和歌山県かつらぎ町総合文化会館で開かれ、大勢の観客が戦争の悲惨さを実感し、改めて世界に冠たる「日本の平和憲法」の尊さを心に刻んだ。
紀北地方の反戦平和を希求する各種19団体で組織する「日本を戦争する国にさせない伊都・橋本連絡会」=下村克彦(しもむら・かつひこ)代表=が主催、「憲法9条を守ろう 那賀郡の会」が共催。橋本・伊都の市町長や教育長、弁護士、医師、文化人ら25人が上映推薦した。
山本慈昭(1902~1990)は、長野県下伊那郡の長岳寺住職で、国民学校(今の小学校)教師。昭和20年5月、3村長の説得を受け、妻子3人や国民学校の子供たちと共に、旧・満州(現・中国東北部)に渡ったが、ソ連軍が日ソ不可侵条約を破って日本人を攻撃。山本ら一行は、山中を逃げ惑ったすえ、ソ連軍の捕虜となり収容。さらに16歳以上の男性は、妻子を残してシベリアに抑留された。山本らは零下30度の極寒の中、山林労務など酷使されたが、1年半後に奇跡的に帰国することができた。
山本は、妻子3人とも現地で死亡したとの情報を受け、泣き崩れるが、郷土のダム建設で、強制連行され亡くなった中国人の遺骨を本国へ帰す運動、さらに、中国残留孤児の日本帰国救済運動に尽力。やがて国をも動かし、多くの残留孤児と家族との再会を果たした。山本は83歳の秋、死んだのではなく、残留孤児となっていた長女と再会、感激の涙を流している。
映画上映会では、冒頭、下村代表が挨拶。子供の頃の「防空壕、防空頭巾、米軍機B29」など和歌山大空襲の記憶、「かつらぎ町だけでも1000人余が戦死している」こと、「当時は満州事変、上海事変、支那事変」などと呼び、「国民も戦争意識は乏しく、新聞もきちんと戦争を伝えなかった」ことなどを説明。政治に向ける国民の目や憲法9条の大切さを強調した。
また「はしもと九条の会」会員の金森均代(かなもり・まさよ)さんが、小説家で作詞家のなかにし礼さんが書いた詩「若者よ 戦場へ行くな 平和の申し子たちへ!泣きながら抵抗を始めよう」(毎日新聞掲載)を朗読。「2014年7月1日火曜日 集団的自衛権が閣議決定された この日日本の誇るべき たった一つの宝物 平和憲法は粉砕された」(中略)「だから今こそ!もっとか弱きものとして 産声をあげる赤子のように 泣きながら抵抗を始めよう 泣きながら抵抗を続けるのだ 泣くことを一生やめてはならない 平和のために!」と読み終えると、共感の拍手が起きた。
この後、戦後70年平和祈念映画「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓の落日」を上映し、午前の部、午後の部合わせて約300人が鑑賞。岡庭一雄・前阿智村長がチラシにより「映画の冒頭で『国家が総力を挙げて作り上げる大きな嘘は、いつの時代でも見破ることは容易ではない』」という字幕が映し出されます(後略)」と紹介。
山田監督も「私は、今回戦争映画を作ったのではなく、平和映画を作りました。もっと悲惨なこともたくさんあるのですが、私は辛すぎてこれが精一杯でした(前後略)」と綴っていて、上映中、会場はしんと静まり返り、映画が終わると「戦争とは何とむごい」「山本慈昭さんは偉い」と、深く感銘した雰囲気。
最後に富岡嬉子(とみおか・よしこ)事務局長が「この素晴らしい映画を、このように大勢の方々にご覧いただき、私たちも頑張ります」と謝辞を述べていた。
一方、1階ロビーでは、写真展「ヒロシマ・ナガサキ原爆と人間」を開催。約40枚の写真パネルを展示し、和歌山県原水協(原水爆禁止和歌山県協議会)の白井春樹(しらい・はるき)事務局長がわかりやすく解説。入場者は核兵器廃絶、被爆国・日本の主張の重要性を噛みしめていた。
写真(上)は映画「山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日」で山本が長女との再開を果たした1シーン。写真(中)は「若者よ 戦場へ行くな なかにし礼」を朗読する金森均代さん。写真(下)は同映画で満蒙開拓団として旧・満州に渡る前夜、もうすぐ戦争が終わることさえ知らずに、家族や仲間たちの前で歌う少女の1シーン。

更新日:2015年8月24日 月曜日 00:00

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