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紅椿・仏の座咲いた♡橋本の高野山真言宗・成就寺~紀の川・大洪水から村人救った船越喜右衛門の石碑かがやく
和歌山県橋本市南馬場の高野山真言宗・成就寺(じょうじゅじ)=木曽泰延(きそ・たいえん)住職=で、春彼岸の紅椿(べにつばき)や仏の座(ほとけのざ)が綺麗に開花した。
同寺には嘉永5年(1852)、近くの紀の川・大洪水から多くの村人を救った船頭・船越喜右衛門(ふなこし・きうえもん)の石碑があり、参拝・観光客らを感激させている。
これは安政元年(1854)大地震の際、自分の畑の稲むらに火をつけて、闇夜の村人を高台へ導き、大津波から人命を救った、同県広川町の濱口悟陵(はまぐち・ごりょう)の「稲むらの火」と心通じる物語。
成就寺境内には、舟形の造形石の上に船越喜右衛門の石碑が建てられ、近くの掲示板には次のように紹介されている。
「喜右衛門は文政5年(1822)学文路に生まれ、船頭をしていました。性格は豪胆で仁慈に厚く、明朗痛快な人であったと言います。
この喜右衛門が紀の川氾濫の危険も顧みず、舟を出して多くの村人を救った偉大な功績は、今もこの地域の人々に語り継がれています。
嘉永5年(1852)7月、紀の川に大洪水があり、当地・南馬場の丁田地区も一部の村民は危険を感じて近くの村へ避難したものの、多くの村人は、村の東のやや高い大師堂へ難を避けました。
ところが、夜になって紀の川は益々増水し、ついには清水と丁田の間の百余間にわたる堤防が決壊して、家々が流され、さらに濁流は山裾にまで及んで、村人の避難した大師堂を残して泥海と化してしまいました。
しかし、紀の川の増水はとどまることを知らず、流れてきた材木が堂に衝突したときなど、一度に悲鳴があがり、あたかも地獄のようであったといいます。
この時、学文路から救助の舟を出そうとしましたが、激流のため2回も転覆しそうになり、恐れてこれ以上 進もうとする者がなくなってしまいました。
そこで、喜右衛門は 単身舟を出して大師堂に漕ぎ寄せ、村人を乗せて 無事帰着したのです。
村人たちは互いの無事を喜び合うとともに、喜右衛門の勇気ある行動に深く感謝したということです」。
同寺は桜の名所、紀の川・南馬場緑地広場近くにあり、訪れる参拝・観光客らは、紅椿や仏の座を見た後、掲示板を読んで「南海トラフ大震災も迫る現代、これは貴重なお話です。参考にしなければ」と話していた。