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空海ロマン槇尾道♪令和の椎出~活性化へ道程標再建

高野山開祖・弘法大師空海が往来した〝修行ルート〟とされる、和歌山県九度山町椎出の槇尾道(まきおみち)で、令和元年5月1日、椎出地区槇尾道復興委員会は、すでに消失した昭和天皇・御成婚記念「槇尾道・道程標」のうち1本を再建、除幕式を行った。槇尾道は〝空海ロマン〟と共に明治・大正時代に栄えた高野参詣道であり、同委員会の山下晴夫(やました・はるお)代表は、「令和元年度中に全部再建して、多くの参詣者に槇尾道を利用、その素晴らしさを知ってほしい」と言っている。
九度山町教委の山本新平(やまもと・しんぺい)社会教育指導員らの説明によると、槇尾道は空海が得度した大阪府和泉市の槇尾山・槇尾寺=(まきおでら)=現・施福寺(せふくじ)~九度山町の紀の川~槇尾山明神社~梨木峠~椎出~高野町の神谷~高野山・女人堂間を言う。途中、高野参詣道・高野七口の一つ・不動坂で合流している。
槇尾山明神社(九度山)由来記などによると、空海は高野山開創以前から、和泉市の槇尾寺・弁財天を信奉。九度山に遷宮する宣託があり、「九度」参拝したことから「九度山」の地名が生まれたとされる。
高野参詣道の活況は、電鉄開通とそのルートにより大きく左右される。明治34年(1901)の旧・紀和鉄道・名倉駅(現・JR和歌山線・高野口駅)開業の頃は、大勢の参詣者が名倉駅~椎出間を人力車、または徒歩で往来し、槇尾道を登った。
大正14年(1923)に旧・高野鉄道・高野下駅(現・南海高野線)が開業すると、椎出の旅館・商店が大繁盛、まちは隆盛を極めた。それも昭和5年(1930)、旧・高野鉄道・極楽橋駅~高野山駅の開業により、参詣者は電車で高野山へ直行。椎出はたちまち衰退したという。
この椎出の黄金時代である大正13年(1924)、昭和天皇の御成婚を記念して、名古屋市民が椎出~高野山女人堂(9キロ)に計46本の槇尾道・道程標を建立した。最近の調査で、うち25本の道程標が消失していた。
空海は唐(中国)に渡り、密教の第七祖・唐長安青龍寺の恵果(けいか)和尚から、遍照金剛(へんじょうこんごう)の灌頂(かんじょう)名を授与された。
帰国後、丹生比売(にうつひめ)神社(かつらぎ町)から神領を貸与され、高野山を開創。槇尾寺・弁財天を信奉し、槇尾山明神社・遷宮を願ったことなどから、日本の「神仏習合」の心が溢れている。
そこで、地元住民は昨年2月、椎出地区槇尾道復興委員会(会員10人)を結成。令和時代を迎えるに当たり、先ず、昭和天皇・御成婚記念の道程標を再建し、空海が往来した槇尾道の活性化を図ることにした。
この日、小雨の中、地元住民ら約30人が参集。山下代表ら3人が、椎出の槇尾道・登山口付近で、1本の道程標(御影石製=高さ約1メートル、15~18センチ角)を除幕。そこには「至 高野山 8880メートル 二里八町三十七間」「至 椎出 200メートル 一町五十間」「令和元年五月建立 九度山町椎出 施主 岩崎幸雄」と刻まれていた。
山下代表は「残る24本中、約半数の再建は決まっていますが、残り半数について、再建協力者を募っています。きょうから令和時代スタート。高野山参詣には、槇尾道を利用し、空海を偲んでください」とアピールしている。
写真(上、中)は山下代表=右=らが除幕した槇尾道・道程標。写真(下)は椎出の登山口で建立当時のままの槇尾道・道程標(大きな3本中の1本)=立札は道程標の説明書き。


更新日:2019年5月2日 木曜日 00:00

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