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戦国武将真田一族と高野山♪石塔研究家木下さん出版
和歌山県高野町の高野山大学総合学術機構(図書館・密教文化研究所)課長で、日本の石塔(せきとう)研究家の木下浩良(きのした・ひろよし)さん(56)は、戦国武将・真田一族の石塔を徹底調査してまとめた歴史本「戦国武将真田一族と高野山」を出版し、5月24日から、真田昌幸・幸村(信繁)父子ゆかりの九度山町の九度山・真田ミュージアムで発売開始、6月上旬から全国の主要書店で発売される。昨年のNHK大河ドラマ「真田丸」放送で脚光を浴びる中、真田一族と高野山・蓮華定院(れんげじょういん)の深いつながりを詳述したこの著書は、多くの幸村ファンに愛読されそう。
真田昌幸と信幸(伸之)・幸村(信繁)父子は、関ヶ原の戦いに際し、昌幸は真田家の存続を熟慮し、信幸を徳川家康方につかせ、昌幸・幸村父子は豊臣秀吉方について戦った。
軍配は徳川方にあがり、昌幸・幸村は高野山・蓮華定院を経て九度山に蟄居(ちっきょ)される。やがて昌幸は大坂冬の陣を前に病没し、幸村は同冬の陣に出陣し、夏の陣で無念の戦死。幸村が家康を死の淵まで追い込んだ勇猛ぶりは、徳川方から「日本一の兵(つわもの)」讃えられたとされる。
今回の「戦国武将真田一族と高野山」(セルパ出版)は、A5判128ページ。1冊1800円(税抜き)。〝真田の赤備え〟の朱色地に昌幸・幸村の肖像画入りの表紙で装丁されている。
その冒頭には「真田家と蓮華定院」と題した、蓮華定院住職で高野山真言宗の添田隆昭(そえだ・りゅうしょう)宗務総長の挨拶文があり、「大永2年(1522)の高野山・大火の翌年、復興の勧進僧(かんじんそう)が信州に派遣され、祖先祭祀とともに蓮華定院との宿坊契約を勧めた」という史実を紹介。
大坂夏の陣の後は、信之公が蓮華定院との「宿坊契約」を更新して、江戸時代の終わりに至るまで、蓮華定院を宿坊とすることが通例となったことを記し、「これら歴史的証人である高野山の真田家石塔群の摩耗(まもう)した氏名が本書により明らかになり、泉下の諸霊もお慶びであろう」と綴って出版をことほいでいる。
木下さんは「はじめに」の欄で、室町時代からの真田家と高野山の深い関係や、戦国時代の昌幸・信幸・信繁父子の概略を説明したうえで、万治元年(1658)に93歳で死滅した信幸の波乱の生涯について「本書において順に述べたい」と挨拶。
本の中身は第1~6章=「真言宗の聖地高野山」「滋野氏造立の鎌倉時代の町石」「真田氏の宿坊寺院の高野山蓮華定院」「高野山蓮華定院の真田一族の石塔」「高野山奥之院の真田一族の石塔」「真田庵の真田一族の石塔」で構成されている。
例えば、第3章は「結ばれた契約書―宿坊証文」「ネットワークで結ばれた真田の里と高野山」「蓮華定院で行われた真田一族への供養」「昌幸の法要と生前葬の逆修(ぎゃくしゅ)のこと」「真田信繁が逆修をした可能性」とある。
さらにその「結ばれた契約書―宿坊証文」では、昌幸・花押入りの「真田昌幸宿坊証文」を写真紹介したうえで、これには「真田郷の貴賤、高野山宿坊の儀においては、前々のごとく貴院となすべくそうろう、以上」(本文の追書)と記述。
その意味は「昌幸の領地・真田郷(現・長野県上田市真田町)から高野山参詣をする人々は、貴賤(身分の高い人と低い人)を問わず、必ず蓮華定院に宿泊することを契約している」と解説している。
また第6章の「石塔の造立をしなかった信繁」の項では、「やはり自身の運命を悟り、散り行く者に後に残るものは不要との決心があったのではないかと、思いを馳せてしまう。ただ、高野山奥之院のいずこか、蓮華定院のどこかに信繁は自身の墓所を密かにつくったに違いない。高野山に自身の墓所があるからこそ、信繁は死後の安心を得て、最後まで諦めることなく命の最後の灯を燃やしたものと、これも推察するのである」と締めくくっている。
伊都振興局で出版披露した木下さんは「真田家のルーツを探ると、信濃国の古豪族の滋野(しげの)氏にたどりつき、高野山には滋野氏が造立した鎌倉時代の石塔が1基あります。本書では真田家にまつわる石塔一つ一つについて解説しています。真田一族と高野山との歴史的つながりを、ぜひ知ってほしい」と話していた。
「戦国武将真田一族と高野山」は1冊1800円(税抜き)。発行所は株式会社セルパ出版(東京都文京区)、発売は株式会社創英社/三省堂書店(東京都千代田区)。
写真(上)は自著「戦国武将真田一族と高野山」を披露する木下さん=伊都振興局で。写真(中)は〝真田の赤備え〟の表紙で装丁された「戦国武将真田一族と高野山」。写真(下)は本の内容の一部。