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明治の商家・見事修復♪みそや呉服店21日オープン

明治17年(1884)建築の和歌山県橋本市橋本の京風・町家の老舗(しにせ)「みそや呉服店」(国の登録有形文化財)旧本館の修復工事が完了し、4月18日、報道陣に公開された。谷口善志郎(たにぐち・よしお)社長は「行政や地域の皆さまのお陰で、橋本の歴史の一部を保存でき、感無量です」と喜び、4月21日(金)「みそや呉服店」本館としてオープンする。
同店は明応4年(1495)に谷口社長の曽祖父にあたる保次郎(やすじろう)さんが創業。旧本館は明治17年(1884)に京都の建築家に頼んで建築。約370平方メートルの敷地に木造2階建て瓦葺きの母屋をはじめ離れ座敷、上蔵、下蔵の計4棟で構築。住居兼店舗として営業した。
大正12年(1923)近くに店舗を新築移転。旧本館は南都銀行や県信用組合の橋本支店などが借用したが、空家となった昭和40年(1965)頃から、みそや呉服店別館となり、「橋本まちかど博物館」に活用。
橋本市から「橋本の町家調査」を依頼された長岡造形大学が、JR・南海橋本駅前周辺の町家を調査した結果、旧本館が類例を見ない歴史的建物とわかり、平成16年(2004)、母屋など計4棟すべてが国の有形登録文化財に指定された。
橋本駅前は約30年前から「中心市街地再開発事業」の対象地域。昭和28年(1953)の紀州大水害、昭和34年(1959)の伊勢湾台風などで、近くの紀の川にそそぐ橋本川が再三はんらん、浸水被害を受けてきた。その防災対策として、橋本市は流域の嵩(かさ)上げ工事を推進。いよいよ旧本館の撤去か、保存かの分岐点に立たされた谷口社長は、「何としても橋本の歴史を残さなければ」と決意、保存の道を選んだという。
旧本館は、橋本川・松ヶ枝橋から応其寺方面にかけての、当時の「ほんまち商店街」にあり、同地域一帯は約1・5メートル嵩上げ。これに伴い、平成27年(2015)に旧本館の母屋など4棟を移動させ、持ち上げて、土地の嵩上げ後に元の場所の高い位置に戻し、屋根や柱、壁などを修復。明治建築の姿を取り戻した。
例えば、味という字を○で囲んだ屋号紋を染め抜いた青い暖簾(のれん)をくぐると、玄関内は土間から上框(あがりがまち)の畳の間がある。玄関上には明治の鉄と木でできた鎧戸(よろいど)、その脇には自然に鍵(かぎ)のかかる仕掛けの引き戸、離れ座敷へ行き来する、明治のランプが残る通り土間などがある。
谷口家・口伝(くでん)によると、旧本館は味噌(みそ)を製造し、川舟に積んで紀の川を下り、紀伊半島沿いに江戸へ輸送。慶応元年(1865)頃から京都の呉服を販売。徒歩で大阪まで行き、淀川を舟で上り、京都で呉服を仕入れて帰ってきた。
屋号は明治初期から末期にかけて「みそや商店」「谷口商店」「谷口呉服店」、さらに現在の「みそや呉服店」と変遷し、大正末期の新館で「みそや呉服店」本店とし、旧本館を別館としていたという。
谷口社長は「曽祖父の保次郎が、32歳の時、京都の大工に頼んで建築した当館が、昔の姿によみがえり、当時の保次郎の心にタイムスリップしたような気持ちです。当面ここで呉服店としての本業に励みますが、絵画展や音楽会、俳句・短歌会、お茶会などにも利用してもらえるよう、創意工夫して参ります」と話していた。
すぐ近くには橋本の基礎を築いた木喰応其(もくじきおうご)上人を祀る応其寺、筋向いには保存修復済みの火伏医院(国登録有形文化財)がある。
写真(上)は綺麗に修復工事を終えた「みそや呉服店」旧本館。写真(中)はランプ生活だった明治のランプが残る旧本館の通り土間。写真(下)は復元された明治の土間・上框・畳の間の風景。


更新日:2017年4月19日 水曜日 00:00

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