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父母に孝顕す前畑さん~五輪V石碑の古写真展示へ

オリンピック史上・日本女性初の金メダリスト・前畑秀子(まえはた・ひでこ)さん(1914~95年)の関係資料を保存する前畑さんの郷里、和歌山県橋本市古佐田の元区長・阪口繁昭(さかぐち・しげあき)さん(85)は、この夏「前畑秀子さん生誕100年記念展」を計画中の橋本市図書館=宮井利明(みやい・としあき)館長=に、「顕父母孝之終也=父母を顕(あらわ)すは孝(こう)の終りなり」と刻んだ「前畑秀子の母」顕彰碑の写真など約10枚を提供した。阪口さんは「すべて写真にはエピソードがあるはずで、ぜひ記念展でご覧になり、前畑さんの偉業を讃えてほしい」と言っている。

前畑さんは橋本町(現・橋本市)出身。昭和6年(1931)1月に母、同年6月には父が相次いで病没。その悲しみの中、昭和7年(1932)のロサンゼルス五輪・女子200メートル平泳ぎで、オーストラリアのクレア・デニス選手にわずか0・1秒差で敗れ、銀メダルに甘んじた。

帰国後、前畑さんの学ぶ名古屋の椙山(すぎやま)女学園の椙山正弌(まさかず)理事長から「あきらめるな」と激励され、次期大会への出場を決意。不断の努力を重ねた。
その結果、昭和11年(1936)のベルリンオリンピック女子200メートル平泳ぎでは、ドイツのマルタ・ゲネンゲルに1秒差をつけ、見事金メダルを獲得。NHK・河西三省(かさい・さんせい)アナウンサーの熱弁中継もあり、全国民を歓喜感涙(かんきかんるい)させた。

今回の提供写真の中、とくにエピソードがあるのは、椙山理事長が、橋本市古佐田の前畑家墓地に建立した直後の「前畑秀子の母」顕彰碑(紀州緑石、高さ約1・5メートル、幅約50センチ、厚さ約10センチ)の古写真。

その石碑の最上部には、余白部分を示す張り紙があり、中央に大きく「前畑秀子の母」、右にやや小さく「第十四回国際オリンピック優勝記念」、左に小さく「昭和七年九月二十日 椙山女子専門学校長 椙山正弌 建之」と書いた張り紙をしていて、その前で前畑さんがにっこり笑って写っている。

ところが実際、前畑さんが優勝したのは、石碑建立の4年後のベルリン・オリンピックなので、「優勝記念」「昭和七年」と刻まれるのは、まったくつじつまがあわない。それでも現在の顕彰碑には、張り紙した表記通りの文字が刻まれていた。

つまり、この写真は、椙山理事長が前畑さんのロス五輪優勝を確信したうえ、両親を亡くした前畑さんの心情をも汲み取り、優勝後、余白部分を埋める計画のもとに、「前畑秀子の母」などの文字は刻んで、早々と建立し、記念撮影したものらしい。

結局、この時は銀メダルに終わり、除幕もできなかったが、次のベルリン五輪では、見事、念願を達成。余白部分には「顕父母孝之終也」の文言を刻んで除幕。前畑さんは椙山理事長とともに優勝報告したという。

この「顕父母孝之終也」という文言は、吉田松陰の日記にある「身体髪膚(しんたいはっぷ)、之(これ)を父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以って父母を顕わすは、孝の終わりなり。」から引用されていた。

阪口さんは「ご両親を亡くした後も、親孝行したいという心は深く、不屈の精神で頑張られた前畑さん。その前畑さんを、終始支えた椙山理事長。何の変哲もなさそうな写真ですが、実は、昭和初期のオリンピック・金メダリストと、そこに展開した人間愛を物語る、歴史的な写真です」と話した。

阪口さんは、前畑さんの兄3人が戦死し、近所に住むその長兄の妻・みよさんが、一人暮らしで苦労していた際、区長・青年団長として、身の回りの世話に貢献した。その縁あって、生前、みよさんから「秀子さんの遺品や資料を、単なるゴミとして出したくない。大切に保存してほしい」と頼まれ、関係写真や文書などを預かった。阪口さんは「必ず永久保存し、その功績を次世代に伝えたい」と言っている。

橋本市図書館では、現在、前畑さんの資料を収集中で、前畑さんが五輪優勝に輝いた「全国ガンバレの日(8月11日)」頃から夏休み中、写真・資料展を開催する予定。

写真(上)は阪口さんが橋本市図書館に展示用・写真として提供した「前畑秀子の母」石碑と前畑さんの写真。石碑に浮き彫りされた「顕父母孝之終也」の文字。写真(下)は「前畑秀子の母」石碑に合掌する阪口さん。


更新日:2014年7月19日 土曜日 00:15

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