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〝戦友存命手帳〟65年ぶり発見~阪口さん85歳
太平洋戦争で旧・ソ連軍の捕虜となり、シベリアに抑留された後、昭和22年(1947)12月、九死に一生を得て帰国した和歌山県橋本市古佐田の橋本地区防衛協会長・阪口繁昭さん(85)方で、抑留当時の戦友80人の出身地や氏名を記入した〝戦友存命手帳〟が約65年ぶりに見つかった。阪口さんは、終戦記念日の8月15日、同市隅田町真土の浄土真宗・極楽寺で開かれた橋本ユネスコ協会主催の恒例行事「平和の鐘を鳴らそう」の講話の席で発表するとともに、「命がけで持ち帰った貴重な戦争記録資料でもあり、しばらく仏壇に供えたうえ、舞鶴引揚記念館(京都府舞鶴市)に寄贈したい」と誓った。
この〝戦友存命手帳〟は、名刺2枚より少し大きめで10ページ。昔のセメント袋をハサミで切って、張り合わせた素朴なもの。今は茶色く変色しているが、戦友の出身地や氏名は鉛筆書きで、文字はしっかりと残存している。
阪口さんは、太平洋戦争末期、満蒙開拓義勇軍として、旧・満州(現・中国東北部)に渡り、間もなく兵役を命じられ、中ソ国境で敵の情報を探る斥候(せっこう)として働き、後頭部に被弾。左耳が聴こえなくなった。そのうえ旧ソ連兵につかまり、シベリアに連行される途中、戦友はばたばたと倒れる。自分も極度の栄養失調と、厳しい連行で、意識もうろうとしていた時、草むらに落ちていた〝一粒のキャラメル〟を発見。旧ソ連兵に見つからないように、とっさに拾い、口に放り込んだ。キャラメルの甘味は、瞬間的に全身に浸透して体が熱くなり、しっかり前進できるように、息を吹き返した。
また、シベリア抑留中は、一切れの黒パンを食べ、鉄道建設や炭鉱、白樺(しらかば)伐採などの、過酷な労役に追いまくられた。次々と衰弱死していく戦友たちの遺骸を、泣きながら、極寒の地に積み上げさせられた。
そんな地獄の異国生活の中で、戦友たちの間から、「真っ先に生きて日本に帰れたら、われわれが、元気に存命していることを、ぜひ家族に伝えてほしい」と言う声が上がり、旧・ソ連兵が使っていたセメント袋をひそかに入手、これで〝戦友存命手帳〟を制作した。旧・ソ連兵の目を盗んで、1個師団全員に回して、全員の出身地、氏名を記入した。
昭和22年末、阪口さんは、この〝戦友存命手帳〟を、足のふくらはぎに張り付け、ゲートルでしっかりと巻き付けて、帰国の途についた。この行為は、旧・ソ連兵に発見されると、即、銃殺される〝命がけの行動〟であった。例にもれず、阪口さんは、旧・ソ連兵に身体検査を受けたが、阪口さんは当時、うら若い美少年。検査はうそのように簡単にすまされ、郷里・橋本に帰還することができた。
阪口さんは、〝戦友存命手帳〟に記入された出身地や氏名をたよりに、その家族の電話番号を片っ端から調べ、北海道から九州まで、判明した計15人の家族に電話をかけて、「戦友はシベリアで無事、働いていて心配ない」と報告。家族や親類、友人らを安堵させた。
その後、この〝戦友存命手帳〟の所在は、どうしてもわからなくなっていたが、今回の「戦争体験の講話」で、阪口さんが講演することになり、改めて自宅の隅々を探したところ、2階の本棚の本と本の間から見つかったという。
阪口さんは「それはもう、電話を掛けた時は、家族の喜びようは、大変なものでした。戦争とは、このように酷いものなんですよ。これは、戦友たちの魂がこもった、大切な戦争記録です。当分の間、自宅の仏壇にお供えして、皆さんの冥福を祈り、納得できた段階で、舞鶴引揚記念館に寄贈、保存展示をお願いするつもりです」と話した。
写真(上)は65年ぶりに見つかった〝戦友存命手帳〟と阪口さん。写真(中)は講話の席で聴講の人たちに〝戦友存命手帳〟を発表する阪口さん。写真(下)は貴重な〝戦友存命手帳〟