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「大塔と八葉峯」の障子寄贈…順教尼の館へ池田さん
口筆で書画を描き、福祉に貢献して、〝身体障がい者の母〟と呼ばれた大石順教尼(本名=よね=1888~1968年)の遺作を展示する和歌山県九度山町九度山の「大石順教尼記念館」(旧萱野家=萱野正巳館長)に、同県橋本市東家の木工芸家・池田秀峯(しゅうほう=本名・秀孝)さん(65)が、〝紀州高野組子細工〟による
「大塔と八葉峯(だいとうとはちようみね)と題する欄間を配した障子一対(2枚)を寄贈した。
障子はそれぞれ高さ1・7メートル、幅95センチで、上部に縦25センチ、横90センチの欄間を配し、下部には屋久杉(やくすぎ)製の腰板(こしいた)を工作、中央全体に和紙を貼っている。
欄間は、高野霊木の高野杉や高野檜(ひのき)、神代杉(じんだいすぎ)を使い、絵柄は、真言密教のシンボルとされる高野山・大伽藍(だいがらん)の根本大塔や、東塔、西塔の3塔がそびえ、それを抱擁するように山並みが囲んでいる。八葉峯とは、8枚の花弁を持つ蓮(はす)の花のことで、高野山を開創した弘法大師・空海の〝曼荼羅(まんだら)の世界〟の象徴といわれる。
順教尼は大阪・道頓堀で生まれ、17才の時、養父の狂乱により、両腕を切り落とされた。のちにカナリアがくちばしでヒナにえさを与えている姿を見て、「両手がなくても、物事はできる」と悟り、書画の道を志した。
1933年に萱野館長の祖父、萱野正之助・タツ夫妻が菩提親となり、高野山で出家得度した順教尼は、しばしば萱野家に逗留(とうりゅう)。55年に口筆「般若心経」の写経が日展書道部に入選、62年には東アジア初の世界身体障害者芸術家協会会員の認証を受けるなど、京都・山科の可笑庵で80歳の生涯を閉じるまで、書画の道を究め、身体障がい者の社会復帰事業に尽くした。
池田さんは、萱野さんから「順教尼が逗留した際、我が家の廊下から、じっと高野山を眺めておられた」と聞いて、順教尼の心眼で見た高野山の風景を制作しようと決心。橋本市在住のフォトライター・北森久雄さんが、順教尼の眺めたという廊下から撮影した写真を参考に、1年半がかりで完成させという。
池田さんは「技術的には、遠近法を施すのが難しかった。しかし、それよりも大変なのは、順教尼がどんな思いで高野山を仰いでいたか。私のような者に、感じとれるはずもありませんが、朝な夕な、未完の作品を見つめ、修正に修正を繰り返して、やっと心の底からわいてきた風景が、このような絵柄の欄間になりました」と語った。
10月1日、記念撮影に訪れた北森さんは「廊下からは、実際には電線などがあって、高野山の大伽藍、順教尼のご覧になった山並みなど、見えるはずもありませんが、池田さんは自らの思いを作品に仕上げたと思います」と評価し、萱野館長も「さすがに県の伝統工芸師、順教尼の館にふさわしい障子を作ってくれました。順教尼の遺作とともに、この『大塔と八葉峯』の障子もご覧いただきます」と喜んでいる
池田さんは、これまでも、和歌山県の依頼で1998年、和歌山市のビッグホエールに「鯨(くじら)」の衝立(ついたて)、99年には明治神宮に「富士に桜」の額、昨年は和歌山大学に「高野山黎明(れいめい)」の額を寄贈。このほか橋本市役所や橋本商工会議所、JR・南海橋本駅などにも作品を贈り、飾られている。
同館は入館無料。開館時間は午前10~午後4時半。休館は毎週月、火曜日(祝日は開館)。同館(電話&ファックス=0736・54・2411)。
写真(上)は「大石順教尼記念館」に寄贈された「大塔と八葉峯」の欄間を配した障子1対=右は池田さん、左は萱野さん。写真(中)は組子細工の欄間「大塔と八葉峯」を説明する池田さん。写真(下)は寄贈の障子が収められた座敷の一部屋と池田さん、萱野さんを記念撮影する北森さん。