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橋本駅空襲やシベリア抑留~児童に戦争体験談を

太平洋戦争中、ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され、九死に一生を得て帰国した和歌山県橋本市傷痍軍人会会長・阪口繁昭さん(84)が、同市内の小・中学生を対象に順次、「戦争体験講話」を行うことになった。同県教育委員会委員で童話作家の佐藤律子さんから橋本市小中学校の校長会に「貴重な戦争体験者がほとんどおられなくなった今、ぜひ児童生徒に語り継いでいただくべき」との提案があり、先ず9月6日、市立信太小学校で開かれることになった。
阪口さんは昭和19年(1944)、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊した直後、少年兵として中国・ソ連の国境で転戦。頭に被弾して左耳が聴こえなくなった。同18年(1945)8月22日、ソ連の飛行船が〝荒城の月〟の曲を流しながら、日本の敗戦を告げ、投降を迫って、捕虜にされた。
ソ連兵のマンドリン銃に囲まれ、シベリアに向けて、約370キロも行軍。途中、栄養失調と疲労で、戦友が次々倒れていく中、自分も、もうだめかと思った時、草むらに落ちている1粒のキャラメルが、目に飛び込んできた。監視兵のスキをねらい、素早く拾って食べたところ、口中の甘さとともに、全身が熱くなり、力がわいてきて、奇跡的に助かった。
シベリアでの抑留生活は、零下30度の猛烈な寒さの中、石炭堀りや鉄道建設、森林伐採などの重労働で、食べ物は黒パン一切れと塩スープだけ。ここでも多くの戦友が、飢えと寒さで死んで、凍土に野積みされた。
阪口さんは「今でも、聴こえてきます。連行される途中、戦友が私の目を見て〝おい阪口、置いていかないでくれ。なあ、たのむ…〟と言ったことば。それに、戦友たちが〝古里の料理が食べたい〟と話した翌朝、かならず息を引き取っていたことです」と述懐する。
さらに、帰国後も、自宅近くのJR南海橋本駅で、市民が米軍の空襲に遭ったことを知る。この惨劇は、昭和20年7月27日午前10時ごろ、米軍の艦載機2機が飛来。機銃掃射を浴びた市民数人(氏名判明は5人)が犠牲となった。
その時の銃弾跡が残る同駅の板壁が、駅のリニューアル化で撤去される際、阪口さんはJR西日本に一部保存を懇願。昨年、地元の丸山公園・地蔵菩薩前に移設し、今年は有志と協力して、犠牲者の〝追悼の碑〟を建立。遺族や市民が参拝している。
信太小学校での講話を控えて、阪口さんは大阪市のピースおおさか(大阪国際平和センター)で、米軍による大阪大空襲について尋ねたところ、米軍のB29爆撃機は昭和20年3月から8月まで8回も飛来、無数の焼夷弾(しょういだん)を投下し、大阪市街を焼き尽くした。橋本駅空襲の当日も、B29117機が大阪に704トンの焼夷弾を投下。この日、橋本方面へ偵察に飛来した戦闘機が、橋本駅構内で、松根油入りのドラム缶を積んだ貨車を発見、機銃掃射を浴びせた。もしも、この戦闘機が焼夷弾を搭載し、これを投下していたら、橋本の市街地は焼け野原になっていたという。松根油は松の木から採取した燃料で、松根油工場は市内にあったが、工場は民家同然の建物だったため、空からは確認されず、米軍機はあきらめて帰ったらしい。
阪口さんが講話する当日、福祉施設などでハーモニカ・ボランティアを行っている澤田敏晴さん(同市市脇)が、話の合間にハーモニカを演奏。子どもたちに戦争当時の空気を感じてもらうことにしている。
阪口さんは「子どもたちには、ぜひ、辛かった戦争体験を説明し、戦争の悲惨さと、平和の尊さを訴えたい」と強調。佐藤さんは「橋本・伊都地方には、数少ない〝原爆体験者〟や〝シベリア抑留経験者〟がいます。その方々のナマの声を聴くことは、とても大切だと思っています」と話した。
写真(上)は、戦争講話の準備に忙しい阪口さん。写真(中)は満蒙開拓青少年義勇軍に入隊時の阪口さん。写真(下)は中国・ソ連の国境(現・中国東北部)で少年兵となった阪口さん。


更新日:2012年8月28日 火曜日 17:32

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