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高野山で同窓生の冥福祈る~橋本中「26会」

    橋本中学校の同窓生追善法要を営む「26会」(第1回、高野山無量光院で)
    橋本中学校の同窓生追善法要を営む「26会」(第1回、高野山無量光院で)
    橋本中学校の同窓生追善法要を営む「26会」(第1回、高野山無量光院で)
    第5回同窓生追善法要を営んだ橋本中学校「26会」の面々(高野山・無量光院で)
    同窓生の過去帳を見る巽さん(右)とアルバムを見る土生さん
    同窓生の過去帳を見る巽さん(右)とアルバムを見る土生さん

和歌山県橋本市の市立橋本中学校の「第5回・同窓生追善法要」が、同県高野町の高野山真言宗・無量光院(住職=土生川正道・高野山真言宗総本山・金剛峯寺元寺務執行検校(じむけんぎょうしぎょう)法印、元宗務総長)で営まれた。
1951年3月、初めて男女共学になった新制中学校の卒業生で、すでに、わかっているだけでも、恩師12人と、同窓生218人中67人が鬼籍に入っている。
世話役の巽好彦さん(76)や土生雅哉さん(76)らは「戦後の貧しい時代、みんないいやつばかりだった」と、深く冥福を祈るとともに、「消息不明の同窓生も多い」ので、「同窓生の安否情報を教えてほしい」と言っている。
巽さんや土生さんらは、1965年ごろから、橋本駅に近い応其寺前の料理店「吉兆」や、紀ノ川南岸の「紀の川苑」などで、「26会」と称し、2、3年に1度、恩師や生徒60~100人が集まって、同窓会を開いてきた。
「追善法要」が始まったのは、或る同窓生の怒りのような一言からだった。1986年ごろ「紀の川苑」で開いた同窓会で、全員、最後の乾杯をした際、少年時代のガキ大将で、当時、個人タクシー運転手をしていた朝倉秀雄さんが、「お前ら何な、同窓生が大勢死んでいるのに、乾杯も何もないやろ」と、大声でぶち上げた。この一声に、「そうや」「ほんまや」と、心から感服したのが、巽さんや土生さんたちだった。
亡くなった同窓生の名前や住所を調べたうえ、同窓生に呼びかけたり、寺院に交渉したりして、1995年11月25日に「第1回・同窓生追善法要」を無量光院で開いた。その時、すでに同窓生30人が鬼籍に入っていた。
本堂で土生川住職の読経、法話を聴いた後、参列者37人中、34人が宿坊で一泊。全員、今は亡き同窓生のことを懐古した。また、厳しく、貧しい時代、「進駐軍」「キャラメル」「脱脂粉乳」などの言葉が、次々と飛び出し、昔話に花が咲いた。
「第5回・同窓生追善供養」では、土生川住職が「東京で開かれた高野山の美術展で、平成天皇にご説明させてもらったが、実に気さくな方だった」と言った際には、巽さんや土生さんらが、同窓生の中には、叙勲や褒賞を受けた古川勝さん(オリンピック水泳金メダリスト=故人)、土居明夫さん(消防功労=故人)、平井孝幸さん(森林業功労)、土生雅哉さん(保護司)や、恩師・豊永裕さん(故人)がいると紹介。「26会」の面々の中には、功績者が多いと自慢した。
ただ、この日は、台風12号が和歌山県に接近した日で、宿泊先の龍神温泉のホテルは電話も通じず、高野山・宿坊で一夜を明かした。それでも同窓生が一堂に集まると、みんな子供心にかえり、楽しかったという。
巽さんは「同窓生の追善法要ができるのは、あの秀(ひで)やん(朝倉秀雄さん)のおかげ。それはもう、けたはずれの〝やんちゃ〟やったけど、彼は奈良・大峰山の修験者で、100回以上も大峰山を踏破した、素敵な人物だった。その彼も2006年1月に亡くなりました」と話した。
土生さんは「次回の同窓会は、来年開きます。高野山・無量光院では、永眠した同窓生の宗派を超えた〝過去帳〟を作っていますし、巽さんがそれをきちんと控えています。同窓生の中には、今、どこで、どうしておられるか、分からない方もいます。ぜひ、消息を教えてください」と言っている。
土生雅哉さん(橋本市東家4の8の21=電話0736・32・0414)

更新日:2011年9月10日 土曜日 07:46

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