特集
通学道路に危険な踏切~地域課題として取り組む
高野線アーカイブス14回目は、54年前の橋本駅東の踏切(和歌山県橋本市)に触れてみたい。
当時、通学路にもなっていた狭くて見通しの悪い踏切には、遮断機や警報機はなく、「踏切注意・一旦止れ」と、なぜか「RAILROAD」「CROSSING」と英字で書かれたX形の看板が立てられていたが、いつ事故が起きても不思議でない状態だった。
当時のことについて、橋本市同和教育子ども会連絡協議会が1992年に発行した、子ども会の歴史と現状などをまとめた冊子「橋子連のあゆみ・交流の輪を広げるために」の中に、以前に作られた子ども会研究会の記録集「子ども会道しるべ」に残されている一部を転載しているページがある。
「原田仲良し会(中学生)では、国鉄(当時)と南海の二重踏切に遮断機がなく、小さい子供が通学するのに危険ということで、踏切当番をしたいと指導者に申し出ました。当番の子に事故でもあればと、運営委員や父母で踏切当番をしていましたが、遮断機設置は原田地区全体の問題であるとして、現在地区ぐるみ運動を盛り上げています」と書かれている。
写真は3枚とも1957年11月21日に撮影した、小中学生の朝の登校時の模様。この時は冊子にあるような、当番は運営委員会や父母ではなく、子供たちの手で行われていたことを示している。
子ども会運営委員長を長く務めた中西和夫さん(83)は「最初は大人だけで踏切当番をはじめたが、のちに中学生も加わるようになった」と話していた。運営委員会では地域の課題として粘り強く取り組み、やっと安全な踏切になったという経緯がある。
(フォトライター 北森久雄)