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高野山奥の院・参道「司馬遼太郎文学記念碑」が人気♡「碑文読むと参拝・観光が楽しくなる」
高野山真言宗総本山金剛峯寺・奥の院(和歌山県高野町)に立つ小説家「司馬 遼太郎(しばりょうたろう)文学記念碑」が、全国から訪れる参拝・観光客から、「初めに、その碑文を読んで歩き始めると、司馬 遼(しばりょう)さんの心地で参拝できる」と喜ばれている。
司馬 遼太郎(1923~1996)は昭和35年に『梟の城』で第42回直木賞を受賞。昭和37年(1962)~『竜馬がゆく』『燃えよ剣』『国盗り物語』、紀行随筆『街道をゆく』『坂の上の雲』などを新聞連載。『空海の風景』は日本芸術院恩賜賞を受賞。歴史を俯瞰(ふかん)して一つの物語と見る「司馬史観」が人気を博した。
昭和56年(1981)日本芸術院会員、平成3年(1991)文化功労者となり、同5年(1993)文化勲章を受章している。
この「司馬 遼太郎(しばりょうたろう)文学記念碑」は、平成20年(2008)9月、高野山開創1200年記念碑として、本山・金剛峯寺=松永有慶(まつなが・ゆうけい)座主・管長=が建立した。
その碑文には「高野山は、いうまでもなく平安初期に空海がひらいた。
山上は、ふしぎなほどに平坦(へいたん)である。
そこに一個の都市でも展開しているかのように、堂塔(どうとう)、伽藍(がらん)、子院(しいん)などが棟をそびえさせ、ひさしを深くし、練塀(ねりべい)をつらぬいている。
枝道に入ると、中世、別所とよばれて、非僧非俗のひとたちが集団で住んでいた幽邃(ゆうすい)な場所があり、寺よりもはるかに俗臭がすくない。
さらには林間に苔(こけ)むした中世以来の墓地があり、もっとも奥まった場所である奥ノ院に、空海がいまも生ける人として四時(しいじ)、勤仕(ごんじ)されている。
その大道の出発点には、唐代の都城の門もこうであったかと思えるような大門がそびえているのである。
大門のむこうは、天である。やまなみがひくくたたなずき、四季四時の虚空(そら)がひどく大きい。大門からそのような虚空を眺めていると、この宗教都市がじつは現実のものではなく、空(くう)に架けた幻影ではないかとさえ思えてくる。
まことに、高野山は日本国のさまざまな都鄙(とひ)のなかで、唯一ともいえる異域ではないか。司馬遼太郎」と刻まれている。
この7月下旬、高野山奥の院一の橋を渡って、参道を歩きはじめた参拝・観光客は、先ず、司馬遼太郎・文学記念碑の前で立ち止まって、ゆっくりと碑文を読み上げていく。
家族連れも若者たちも「すごいこと書いてある」と目をぱちくりさせ、超20万基の墓石群と杉木立におおわれた参道を御廟に向かった。ある高齢者の一人は「司馬遼さんの歴史小説・空海の風景には感動したので、きょうここにいるだけでうれしいです」と話していた。
写真(上、下)は高野山奥の院・参道一の橋近くに建つ司「馬遼太郎文学記念碑」と僧侶や参拝・観光客の皆さん。写真(中)は真夏の高野山・奥の院参道風景。