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高野山の四季、俳句にしてね♡普賢院の芭蕉堂~家族連れら生涯の思い出に

高野山真言宗総本山・金剛峯寺(和歌山県高野町)の元座主管長で俳人の森寛紹(もり・かんしょう)師(1899~1994)が、山内の自坊・普賢院(ふげんい)に建立した「芭蕉堂(ばしょうどう)」が全国の参拝・観光客から、「春夏秋冬の高野山で、唯一句詠むだけで、生涯の思い出になる」と人気を集めている。

俳誌「ホトトギス」同人だった森寛紹師(俳号・白象)は昭和36年(1961)、ヒノキ造りの「芭蕉堂」(約10平方メートル)を建立。堂内正面に芭蕉像、その脇に高浜虚子ら伝統俳句結社の主宰者の位牌を安置した。

手前の文机には和紙の句帳と筆を用意して、自ら編集発行した素敵な冊子「芭蕉と高野山」を置いている。

俳聖・松尾芭蕉は、伊賀上野の主君・藤原良忠の遺髪を菩提寺である普賢院の前身・中島坊報恩院に納め、和歌と念仏に生涯を終えた西行法師にあこがれて出家を考え、弟子の杜国(とこく)を従えて吉野紀行の際、3度にわたって高野山へ参拝。「父母の頻(しき)りに恋し雉子(きじ)の声」の句を残している。

森寛紹師は、芭蕉から与謝蕪村、正岡子規の流れをくみ、花鳥諷詠を唱える虚子が昭和26年(1951)から毎年1度、金剛峯寺で「牡丹句会」、その「前夜句会」を普賢院で開催。真言密教と吟詠に生きた寛紹師が芭蕉の遺徳をしのびながら、「俳句を盛んにしたい」と同堂を建立した。

普賢院の境内には、釈迦の遺骨、仏舎利を納めた朱色あざやかな摩尼殿(まにでん)もあり、大勢の参拝・観光客が訪れ、その近くの「芭蕉堂」へ入堂する人々は、芭蕉像に手を合わせたあと、「私も一句」と筆を執っている。例えば「満ち満ちて生ずるふしぎ花高野」

「新緑の高野に癒し頂きます」「鐘の音に目覚める朝の風涼し」「おばあちゃん連れてきてくれてありがとう」などと記されている。

普賢院=森寛勝(かんしょう)住職=は、かつて「牡丹句会」や「前夜句会を開いてきた高浜虚子と孫娘の「ホトトギス」稲畑汀子(いなはたていこ)主宰(1931~2022)ら親・子・孫3代の句碑を高野山・奥の院に建立。

そこには「炎天の空美しや高野山」(虚子)や「萬丈(ばんじょう)の杉の深さや五月闇(さつきやみ)」(汀子)と刻まれている。平成11年(1999)の稲畑汀子・句碑除幕式の際,稲畑主宰は「この句は、ここの杉木立で詠みました。句碑の前に立つと、祖父がほほ笑みかけ、父がお前もやってきたかと迎えてくれているようです」と謝辞を述べていた。

同院境内では6月下旬、百日紅(さるすべり)の根元で、赤いサツキが咲き誇っている。

写真(上、下)は高野山・普賢院の芭蕉堂。写真(中)は境内で咲き誇る綺麗なサツキ。


更新日:2022年6月20日 月曜日 20:08

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