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西行法師生誕900年・献香献茶式♪丹生都比売神社

平安時代末期の歌人・西行法師(さいぎょうほうし)生誕900年の節目に当たる重陽の節句の9月9日、西行ゆかりの地である和歌山県かつらぎ町上天野の丹生都比売(にうつひめ)神社=丹生晃市(こういち)宮司=で、京都市東山区の洛東眞葛ヶ原(らくとうしんくずがはら)西行庵茶道円位流(えんいりゅう)の花輪竹峯(はなわ・ちくほう)当主・主宰の献香・献茶(けんこう・けんちゃ)式「祈りから実り」が斎行(さいこう)された。
西行法師は近隣の紀の川市(旧・打田町)出身。出家して約30年間、高野山に滞在したが、妻は女人禁制のため高野山に登れず、康治元年(1142)頃、丹生都比売神社近くに庵(いほり)を構え、僧侶となって生活、15歳の娘も尼となって同居。2人は当地で生涯を終えた。西行法師は下山の際、同神社に参拝するとともに同庵で妻や娘と団欒(だんらん)を楽しんだとされる。
丹生都比売神社は1700年以上前に創建され、丹生都比売大神を祀る。弘法大師・空海は1200年前、丹生都比売大神から、高野山を借り受けて開山。世界遺産に登録された神仏融合の社である。
この日、花輪当主と共に、西行を崇敬(すうけい)する茶人ら約50人が参列して、ご神前の楼門内に着座。前方には西行庵の什物(じゅうもつ)・真台子(しんだいす=棚)を置き、そこに風炉(ふろ)や茶釜(ちゃがま)、茶碗(ちゃわん)などを用意。
丹生宮司が厳かに祝詞奏上(のりとそうじょう)の後、花輪当主が神々(こうごう)しい丹生都比売大神に向かい、真摯(しんし)に濃茶(こいちゃ)・薄茶(うすちゃ)を煎じ、これを禰宜(ねぎ)がうやうやしく奉納。
花輪当主は西行法師の和歌「水の面に宿る月さへ入りぬるは池の底にも山やあるらむ」を抑揚つけて読み上げ、「西行法師ゆかりの当神社で、このように献香・献茶ができて、誠に有難うございます」と謝辞を述べた。
この間、静寂な楼門内では、茶筅の音が高鳴り、社の森からは蝉の声、参拝家族の子供の声が届く。参列した茶人たちは、この詩情の中で、時折目をつむり、歌人・西行と心を一つにした様子だった。
さらに、西行法師坐像の掛け軸で飾られた社務所広間にお茶席が設けられ、全員じっくり薄茶を味わった後、豊臣秀吉の側室・淀君(よどぎみ=茶々)が寄進した輪橋(りんきょう)など、初秋の境内をめぐり、近くの「天野和み処café 客殿(きゃくでん)」 では「直会点心(なおらい・てんしん)=茶会の中の食事」を楽しんだ。
高野山で30年間、僧侶として庵生活した西行、弘法大師・空海に高野山を貸した丹生都比売大神、その近くに妻娘が庵を結び、西行と貴重なひとときを送っていた素晴らしい歴史。
今回、和歌山大学の鈴木裕範(すずき・ひろのり)客員教授が、その歴史を基に、花輪当主や丹生宮司に、初の献香・献茶式「祈りから実り」の斎行を提案、実現した。
丹生宮司は「当神社には、元々、能楽堂があり、献茶なども行われてきたが、戦後、その行事もなくなってしまった。きょうは神様もお喜びであり、宮司としてもうれしいです」と感謝していた。
写真(上)は献香・献茶を煎じる花輪当主。写真(中)は丹生都比売神社・社務所のお茶席・床の間に掲げられた西行法師坐像の絵の掛け軸。写真(下)は同神社・楼門内で行われた献香・献茶式の風景。


更新日:2018年9月10日 月曜日 00:00

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