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尊崇・太神社を復元再興♪応其上人の町に画龍点睛

名高い木喰応其上人(もくじきおうごしょうにん)が発展させたという和歌山県橋本市橋本で、安土桃山時代に勧請(かんじょう)された郷土の鎮守(ちんじゅ)「太神社(だいじんじゃ)」は、橋本駅前中心市街地再開発事業で撤去されていたが、今夏、神々(こうごう)しく復元・再興された。近くには応其上人を祀る応其寺があり、歴史的建造物の「みそや呉服店」や「火伏医院」(いずれも国の登録有形文化財)は残され、地元区長で太神社氏子会(うじこかい)の津守秀彰(つもり・ひであき)さんは、「これで次世代に伝承できる」と、ふる里の〝画龍点睛(がりょうてんせい)〟を喜んでいる。
応其上人は豊臣秀吉を説得して、高野山焼打ち攻めを阻止。天正15年(1587)に高野山麓の紀の川に架橋。秀吉の許諾を得て塩市を開いた。橋本は旧・高野街道と旧・伊勢街道の交差点周辺で、参拝客が激しく往来し、塩などの取引で舟運も活発化。今のまちの繁栄の基礎を築いた。
その頃、「太神社」は鎮守の杜(もり)として勧請され、祭神・天照皇太神(あまてらすめおおかみ)を祀った。以来、旧藩主の信仰と住民の崇敬を集め、21年ごとの正遷宮(しょうせんぐう)で建物を修復。とくに戦前は、奉納相撲(ずもう)や神輿渡御(みこしとぎょ)、餅(もち)投げ、火点(ひとも)し行事などが営まれ、賑わったという。
「太神社」の場所は、旧高野・旧伊勢街道近くの、紀の川にそそぐ橋本川・松ヶ枝橋のすぐ南東側。境内には江戸時代の一里松=和歌山・京橋から一里(4キロ)ごとに植えられた11本目の松)が植栽されていたが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で太い枝が落下し、危険防止のため根元から伐採された。
さらに「太神社」は約8年前、駅前再開発事業で撤去。今回、ほぼ同じ場所に銅版屋根の本殿(高さ約2・8メートル)を台座(約80センチ)上に復元し、社務所兼神輿蔵(木造平屋約10平方メートル)を建立。中に御神輿を収納し、表に旧社(きゅうやしろ)の飾り瓦を掲げた。
その前方両脇には、元の石灯籠(いしどうろう)、川側には住吉、稲荷の両神社を戻し、南から石の鳥居をくぐり、御影石の参道を進めば、本殿に参拝できるようにした。一里松の切り株(直径約1メートル)は、本殿と社務所の間にあり、石囲いしてそのまま保存した。
この「太神社」のまちは、秋祭りの舟楽車(ふなだんじり=和歌山県有形民俗文化財)で名高く、舳先(へさき)で鉦(かね)、船尾で胡弓(こきゅう)、屋形内で三味線、小太鼓を演奏。多くの人々を感激させている。
建造物は「太神社」「みそや呉服店」「火伏医院」を除いて、昔の風景は一変、人口も激減しているが、秋祭りには、駅前再開発で他所へ移住した人たちも参集。舟楽車を担いで、まちを盛り上げている。
「みそや呉服店」の谷口善志郎(たにぐち・よしお)社長は、「町家だけでなく、私たちの尊崇する、太神社が復元・再興され、一里松も保存できたので、とてもうれしいです」と話し、津森さんと共に、ふる里の歴史文化伝承を誓っていた。
写真(上)は復元・再興された橋本市橋本の鎮守の「太神社」。写真(中)は同境内で保存された一里松の切り株。写真(下)は太神社の本殿に掲げられた旧本殿の飾り瓦。


更新日:2018年5月10日 木曜日 00:00

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