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米軍銃撃・犠牲者の冥福祈る~追悼の会が清掃・供花

太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市古佐田のJR・南海「橋本駅」構内で、米軍機の機銃掃射により市民6人が犠牲になって71年になる7月24日朝、地元有志でつくる「米軍銃撃犠牲者追悼の会」=阪口繁昭(さかぐち・しげあき)世話人代表(88)=は、同駅北側の丸山公園にある「橋本駅米軍艦載機銃撃犠牲者追悼の碑」の周辺を清掃、供花して6人の冥福を祈った。
橋本駅の空襲は、昭和20年(1945)7月24日朝、米軍・艦載機が飛来。駅舎や停車中の松根油(しょうこんゆ)入りタンク積載の貨物列車に機銃掃射。タンクが爆発、銃弾を浴びた市民が死傷した。
橋本駅がリニューアル工事を行う際、無数の銃弾跡が残る同駅・跨線橋(こせんきょう)が撤去処分されることになり、阪口世話人代表は「これは後世に伝承、戦争の悲惨さを語り継ぐ必要がある」として鉄道関係者に懇願、平成23年(2011)に跨線橋の板壁などを同公園に移設した。
同時に「追悼の碑」(高さ約90センチ、幅約26センチ、厚さ約10センタ)を建立。独自調査で確認した犠牲者6人=平林靖敏(ひらばやし・やすとし)さん(15)、恋中圭一(こいなか・けいいち)さん(47)、山本稔(やまもと・みのる)さん(38)、菅野廣雄(すがの・ひろお)さん(19)、海立節子(かいだて・せつこ)さん(20)、坂上貢(さかうえ・みつぐ)さん(14)の氏名と当時年齢を刻んだ。
以来、戦後70年(昨年7月24日)の命日まで毎年、「追悼の集い」を営み、その都度、遺族や市長、県議、市議、地区役員ら大勢が参列。応其寺(おうごじ)の松井孝憲(まつい・こうけん)副住職が読経する中、参列者が焼香・合掌。「のぞみハーモニカクラブ」メンバーが「浜辺の歌」や「ふるさと」、県立橋本高校・吹奏楽部が「見上げてごらん夜の星を」などを演奏して、冥福を祈ってきた。
今回は「追悼の会」の会員が全員80歳代の高齢のため、無理はできず、「追悼の集い」は戦後70年を節目に昨年で終止符。この日、自分たちだけで6人の御霊を供養。真夏の蝉の声に包まれる中、木々の剪定や草刈り、追悼碑の洗い清めをしたうえ、ろうそくを立て供花・焼香、全員静かに手を合わせた。
遺族側から参加した「酒のABC橋本」相談役・平林久長(ひらばやし・ひさなが)さん(82)は「この碑に刻まれた平林靖敏15歳は当時中学生で、小学6年生だった私の兄です」と話せば、「追悼の会」会員の元紀北工業高校教諭・池永惠司(いけなが・けいじ)さんが「靖敏くんは私と同級生で、とても元気で明るい子でした。私は駅近くの自宅で、機上から銃撃する米兵の顔を見たのです」と、同級生の死を残念がる。平林さんは「皆さんに兄の霊を慰めていただいて、有難い気持ちでいっぱいです」と礼を述べた。
阪口世話人代表は「あの戦争の悲惨さ、平和の尊さ。この誰でもわかることが、どうしても忘れられがちです。できれば若い人たち、少しでも機会があれば、ぜひここを訪れ、手を合わせていただきたい」と訴えていた。
写真(上)は犠牲者の冥福を祈る阪口世話人代表=前列左=らと平林さん=前列左。写真(中)は瑞々しい供花。写真(下)は追悼の碑の周辺を清掃する「追悼の会」の人たち。


更新日:2016年7月25日 月曜日 00:00

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