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太宰府でも石童丸物語を伝承~市民遺産に父の関所跡
霊峰・高野山を主舞台にした平安時代の親子哀話「石童丸物語」の父・苅萱道心(かるかや・どうしん)ゆかりの福岡県太宰府市の「苅萱の関跡(かるかやのせきあと)」が「太宰府市民遺産」に認定され、市民有志が保存・継承に取り組んでいることがわかった。
このほど和歌山県橋本市学文路の学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)で営まれた、道心の側室「千里御前(ちさとごぜん)の没後852年御遠忌(ごおんき)法要」で、参列した太宰府市景観・市民遺産会議事務局の遠藤茜(えんどう・あかね)さんが、「遺産認定」を説明。学文路苅萱堂の顧問・岩橋哲也(いわはし・てつや)さんが「はるか筑紫の国(福岡)でも、石堂丸物語を伝承…、誠にうれしいです」と、伝承協力を誓っていた。
「石童丸物語」は筑紫の国の領主・加藤左衛門尉繁氏(かとうさえもんじょうしげうじ)が、苅萱道心(かるかや・どうしん)と称して高野山で修行。道心の出家後、2番目の夫人(側室)千里の一子・石童丸が、父と会いたさに高野山へ。女人禁制のため、母を山麓の宿「玉屋」に残し、道心に出会うが、修行中の道心は父と名乗れない。落胆した石童丸が宿に戻ると、千里は心労のため急逝。石童丸は道心の弟子になり仏道修行するが、生涯、父子の名乗りはなかったという哀話。
この日、高野山参拝の旅の途中、苅萱堂「千里御前・御遠忌法要」に参列した遠藤さんは、太宰府から持参した「太宰府の文化財 苅萱の関」「太宰府市民遺産活用推進計画」などの資料を、約30人の参列者に配布。初めて道心の郷土史を説明した。
それによると、太宰府市坂本1丁目の関屋交差点付近に、昔の関所「苅萱の関」(成立時期不明)があり、永享10年(1438)の文書に、この関所で「過銭(かせん)」(通行税)が徴取されていたことを示し、文明2年(1480年)には、全国に名高い連歌師(れんがし)・飯尾宗祇(いいお・そうぎ)が、この関所について歌を詠んでいる。
天正15年(1587)、豊臣秀吉の随行・細川藤孝(ほそかわ・ふじたか)の紀行文には「かるかやの関の跡」と記述され、この時点ですでに関所がないことを示している。
苅萱道心は、この関所の関守(せきもり)を務め、正室と娘の千代鶴(ちよづる)、側室の千里御前と暮らしていたが、道心は花見の席で散り桜を見て仏道修行を決心、高野山へ出立(しゅったつ)。のちに親子哀話となり,中世には、高野聖(こうやひじり)によって全国に伝播(でんぱん)、やがて浄瑠璃、歌舞伎、文楽、能でも演じられた。
高野山麓の橋本市では、岩橋さん脚本の「石童丸物語」をアマチュア劇団「はしもとふるさとオペラ」が高野山や和歌山・大阪などで公演、喝采を浴びている。
昔は「苅萱の関跡」付近に千代鶴姫の塚があり、その場所に同関跡の看板。今は旧道沿いに石碑が建っている。太宰府市景観・市民遺産会議は、平成26年に「苅萱の関跡」を市民遺産に認定。地元有志で発足した「かるかや物語を伝える会」は、石碑周辺の美化活動や、物語を伝える行事などに取り組んでいる。
遠藤さんは「かるかや物語は、昭和12年発行の尋常高等小学校の『郷土読本』にも掲載され、子供たちは学芸会の定番劇として演じてきましたが、今は行われていません。今年は石童丸物語の紙芝居を作る予定で、皆さんと共に頑張りたい」と誓った。
千里御前は永万元年(1165)3月24日、学文路の宿「玉屋」で32歳で逝去。学文路苅萱堂の庭には、千里御前の墓石「健泰妙尊大姉(けんたいみょうそんだいし)」と刻んだ宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。岩橋さんは「このように大宰府には苅萱の関跡、ここには千里御前の墓石、さらに長野市には安楽山苅萱堂往生寺がある。遠藤さんたちと連携して、この情愛深い親子哀話を伝承したい」と語った。
写真(上)は太宰府市に建つ「苅萱の関跡」の石碑。写真(中)は「苅萱の関跡」の説明をする遠藤さん=学文路苅萱堂で。写真(下)は右から遠藤さん、岩橋さん=学文路苅萱堂わきの千里御前の墓石前で。