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「19人の御霊よ安かれ」~遊覧船遭難50回忌

昭和40年(1965)8月1日、大阪港で起きた遊覧船「やそしま丸」転覆事故で死亡した、和歌山県橋本市菖蒲谷の子供会の児童9人と保護者10人を追悼する「やそしま丸・慰霊祭」(50回忌)が、8月1日、同市菖蒲谷の高野山真言宗・普賢寺(ふげんじ)=平田暁華(ひらた・ぎょうか)住職=境内で営まれた。

菖蒲谷区と菖蒲谷遺族会が主催。境内西隅には事故の2か月後、三重県鈴鹿市の仏師・宮崎(みやざき)かなるさん寄贈・建立の「身代(みがわり)地蔵尊」と「手向草(たむけそう)の碑文」があり、遺族会は今回、そのそばに梵字(ぼんじ)と「「宝塔者為やそしま丸遭難者諸霊五十年忌追善菩提也」と刻んだ石塔婆(せきとうば=慰霊碑)(御影石製、高さ2・26メートル、21・5センチ角)を建立。周囲を献花で飾り、境内南側には、19人の遺影を飾って、当時の新聞を掲示、悲しみ深い葬送風景などのアルバムを置いた。

猛暑の中、境内には遺族会や子供会、区民、行政、教育、議会関係者ら、約170人が参列。先ず、山口善彦(やまぐち・よしひこ)区長が、主催者を代表して、多数の参列に謝辞を述べ、「御霊(みたま)安かれと祈ります」と開会挨拶。全員で黙とうした後、平田住職ら5人の導師の読経が続く中、一人ひとり心静かに焼香を奉げた。

仁坂(にさか)和歌山県知事代理の古田雅昭(ふるた・まさあき)伊都振興局長、平木哲朗(ひらき・てつろう)橋本市長、石橋英和(いしばし・ひでかず)市議会議長、小林俊治(こばやし・しゅんじ)橋本市教育長、県議会代表の向井嘉久蔵(むかい・かくぞう)県議らが、次々マイクを握り来賓挨拶。「悲しい事故を風化させてはならない」「命を大切にする教育を続ける」「安心安全な社会に」などと、それぞれ誓いの言葉を述べた。

最後に菖蒲谷子供会代表で紀見小学校3年の具嶋将大(ぐしま・しょうた)くん、佐藤祐次郎(さとう・ゆうじろう)くん、瀬谷明未(せたに・あみ)さんの3人が、「大切な命が天国へ旅立ってしまい、ご家族の気持ちを考えると、心が張り裂けそうです。私たちの頑張りを天国から見ていてください」と、哀悼の意を交代で読み上げると、参列者らは深く頭を下げて、手を合わせていた。

閉式の辞で遺族会の山本憲治(やまもと・けんじ)会長が「皆様のお陰で立派な慰霊祭ができました」と謝意を表し、「これで19人の御霊も成仏できると思います」と哀悼の意を述べて締めくくった。

近くの御幸辻に住むフォトライター・北森久雄(きたもり・ひさお)さんは事故当時、悲しみに暮れる葬送風景を必死でカメラに収め、新聞各紙も収集して保存。今回、その新聞と写真アルバムを提供、境内に掲示した。受付では山本会長が2年がかりで執筆・刊行した記念誌「やそしま丸遭難事故の記録」を全員に配布。参列者は、懐かしい遺影や、当時の新聞などに見入り、半世紀前の出来事を思い返していた。

当時、小学校3年生で、「やそしま丸」に乗って都めぐりを体験、遭難した経験を持つ公務員・北川久(きたがわ・ひさし)さんは、「あの日、私たちの遊覧船にタグボートが接近してきて、ドーンと衝突した瞬間、その衝撃で海に投げ出されました。私は泳げないので、必死で海中でもがきますと、浮いたり沈んだり、それを繰り返します。浮かび上がった時、岸壁に人々がいるのが見えて、また沈みました。どうして救助されたかは、怖くて覚えていません」と述懐した。

橋本市老人クラブ連合会会長の辻田育文さんは、「当時、私は30代前半。あの悲惨な状況の中、当地へ新聞記者がどっとやってきた。当地には電話が3か所しかない。わが家の電話も終日〝占拠〟されました。今でもあの衝撃と、家族を亡くした区民の悲しみは、忘れられません」と振り返っていた。

「やそしま丸遭難事故」とは=昭和40年8月1日、菖蒲谷子供会の児童26人が、父母ら23人に付き添われて、観光バスで南海・御幸辻駅前を出発。同10時15分頃、遊覧船「やそしま丸」に乗り、約30分間の港めぐりを楽しんで帰港の途についた。埠頭(ふとう)に着岸寸前のところで、タグボート「芦屋丸」に衝突され、あっという間に転覆・沈没。他の一般乗客や乗組員らも含めて、計59人が海中に投げ出され、同子供会の児童9人、父母ら保護者10人、一般客1人の計20人が犠牲となり、ほとんどが重軽傷を負った。
写真(上)は橋本市菖蒲谷の普賢寺で営まれた「やそしま丸遭難者慰霊祭」の光景。写真(中)は子供会代表で挨拶する具嶋くん、佐藤くん、瀬谷さんの3人。写真(下)は掲示された当時の新聞や飾られた遺影に見入る参列者たち。


更新日:2014年8月2日 土曜日 00:00

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