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やそしま丸事故・50回忌~1日、犠牲者19人慰霊

昭和40年(1965)8月1日、大阪港で起きた遊覧船「やそしま丸」転覆事故で死亡した、和歌山県橋本市菖蒲谷の子供会の児童9人と保護者10人を追悼する「やそしま丸・慰霊祭」(50回忌=菖蒲谷区・遺族会主催)が、8月1日午前10時半から、同市菖蒲谷の高野山真言宗・普賢寺(ふげんじ)=平田暁華(ひらた・ぎょうか)住職=で営まれる。山本憲治(やまもと・けんじ)遺族会会長は「あのような大惨事は、二度と繰り返してはならない。慰霊祭には、どなたでも平服で自由にご参列ください」と言っている。

遺族会の話によると、あの日の午前8時頃、菖蒲谷子供会の児童(小学生)26人が、父母ら23人に付き添われて、観光バスで南海・御幸辻駅前を出発。同10時15分頃、遊覧船「やそしま丸」に乗り、約30分間の港めぐりを楽しんで帰港の途についた。埠頭(ふとう)に着岸寸前というところで、タグボート「芦屋丸」に衝突され、あっという間に転覆・沈没。他の一般乗客や乗組員らも含めて、計59人が海中に投げ出され、同子供会の児童9人、父母ら保護者10人が犠牲となり、ほとんどが重軽傷を負った。

遺族会では以来、毎年7月31日、普賢寺で慰霊祭を営んできたが、今回は50年忌の節目にあたるので、普賢寺境内の「身代地蔵(みがわりじぞう)」「手向草(たむけそう)の碑文」のそばに、梵字と「宝塔者為やそしま丸遭難者諸霊五十年忌追善菩提也」と刻んだ石塔婆(せきとうば=慰霊碑)(御影石製、高さ2・26メートル、21・5センチ角)を建立した。

「身代地蔵」は事故の2か月後、三重県鈴鹿市の仏師・宮崎(みやざき)かなるさんが彫刻・寄贈、建立された石像(高さ70センチ)で、「手向草の碑文」には、地蔵尊は「重き苦しみあらば我代わりてその苦悩を受けん」と誓い給う、という意味の文言が刻まれている。

また、菖蒲谷地区遺族会長の山本会長は、当時の新聞記事や聞き取り調査をもとに執筆、約2年がかりで冊子「やそしま丸遭難事故の記録~橋本市菖蒲谷地区子供会を襲った戦後最大の遊覧船事故」(76ページ)を500冊刊行。犠牲者全員の顔写真や名簿、やそしま丸の写真などを掲載し、「菖蒲谷地区の子供会」「悲惨な遭難現場と必死の救助作戦」「突然の知らせを受けた家族と学校」「三千人が参列した合同葬」などの見出しで、簡潔明瞭に綴っている。

「やそしま丸」の慰霊祭当日は、午前10時から受け付け、10時半に開式、山口善彦(やまぐち・よしひこ)区長が主催者代表挨拶の後、黙祷(もくとう)、平田住職らの読経、献花・焼香をささげる。

来賓の橋本市の平木哲朗(ひらき・てつろう)市長や小林俊治(こばやし・しゅんじ)教育長、市議会議長、県議代表、さらに子供会、遺族会代表の挨拶がある。

冊子「やそしま丸」遭難事故の記録」は、同慰霊祭の参列者に配布される。山本会長は「やそしま丸事故の資料は、ほとんどなく、市民の記憶も薄れています。私たち遺族会有志は、今後も身代地蔵尊の参拝とお世話を続けますが、皆様、後世に語り継ぎ、普賢寺にお越しの際は、身代地蔵尊にお祈りください」と話した。

写真(上)は完成した石塔婆に合掌する山本会長=左=ら。写真(中)は慰霊祭で配布する冊子と執筆種の山本会長。写真(下)当時の新聞切り抜きと冊子「やそしま丸遭難事故の記録」。


更新日:2014年7月31日 木曜日 13:04

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