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中世の武家要塞・東家館の遺構発掘~旧橋本小跡地

和歌山県橋本市教委と同市遺跡調査会は2月24日、同市東家の旧・橋本小学校跡地(グラウンド)から、大溝(おおみぞ)や掘立柱穴群(ほったてちゅうけつぐん)などの遺構を発掘、ここが南北朝時代の中央派遣武士の拠点「東家館(とうげやかた)跡」である可能性が極めて高いと発表した。また、同じ場所から弥生・古墳時代の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)跡、方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)、土器類も出土していて、同所が弥生時代~古墳時代、大集落があったことが類推できる。同市教委では3月2日、「現地説明会」を開催することにしており、歴史ファン・市民の参加を呼び掛けている。
この日、橋本市文化財保護審議会の岩倉哲夫委員と市教委の大岡康之・学芸員が説明した。発掘現場は、愛宕山の南側、紀の川の北側で、愛宕山側から紀の川側へ、まるで舌(した)を出したような、いわゆる「舌状(ぜつじょう)台地」の中の約2000平方メートル。その地中から長く伸びた深さ約1・5メートル、幅4~5メートルの大溝(空堀)が、L字形に掘削された形で発掘。立派な住居の存在を裏付ける、幾つもの掘立柱穴跡が整然と並んでいることも判明。大溝からは有力者がいたことを思わせる舶来・中国製磁器などが出土した。
これらのことと、葛原文書(かつらはらもんじょ)や、高野山文書に記されている史実から、この遺構は南北朝時代、権勢を誇った畠山氏(はたけやまし)派遣の、守護相当の大物武士の拠点「東家館」だったと推定。すでにその北側で発掘済みの大溝は、北からの襲撃、今回発掘された大溝は南側からの襲撃に備えた「東家館」の要塞(ようさい)であると類推された。
同発掘調査は昭和58年から、同小学校屋内運動場の建設などに伴い、第1次・第2次調査が行われ、今回、同小が橋本中学校の敷地内へ移転、跡地に「橋本こども園」が建設されるのに伴い、第3次調査を実施。当初、「東家館」の存在が浮上したが、今回、その存在を裏付ける形となった。
また、同じ跡地及び周辺から、方形周溝墓(一辺9~10メートル)と、その周溝から弥生時代の土器が出土。古墳時代の竪穴住居跡20基を発掘していて、弥生時代後期~古墳時代初期の大集落跡であることも確認された。このことから、旧・橋本小学校の運動場跡は、古代から多くの人々が生活を営み、大切な人を葬り、中世には武家の要塞となり、昭和・平成には大勢の子供たちが、心身を育んだ〝歴史の堆積舞台〟ということになる。
現地説明会は3月2日午後1時半から実施。旧・橋本小学校跡は、橋本市役所から東へ徒歩5分。小雨決行、参加無料。大岡学芸員らが解説する。問い合わせは市教委文化スポーツ室(0736・33・3704)。「小学校跡には、駐車場がないので、ご了承ください」と言っている。
写真(上)は発掘された「東家館跡」の大溝=解説に当たる向うから岩倉委員、大岡学芸員。写真(中)は掘立柱穴跡が並ぶ「東家館」跡。写真(下)は広大な遺跡発掘現場=右前方手前は方形周溝墓。


更新日:2014年2月25日 火曜日 00:12

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