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戦争反対!を次世代に~阪口さんシベリア体験語る

太平洋戦争中、ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され、九死に一生を得て帰国した和歌山県橋本市傷痍軍人会会長・阪口繁昭さん(84)は2月7日、同市高野口町の構造改善センターで開かれた「サロン田園」で、自らの悲惨な戦争体験を講演した。
この日、高野口町信太地区の60~80歳代の約20人が参加。先ず、「サロン田園」の大東瑞穂会長が「本日は、シベリア体験者で名高い阪口さんに講演をお願いしました。70年も前の昔日を思い起こしてください」と挨拶。全員で「春が来た」を合唱した後、阪口さんの講演を聴いた。
阪口さんは昭和19年(1944)、満蒙開拓青少年義勇軍に入隊し、少年兵として中国・ソ連の国境で転戦。頭に被弾して左耳の聴力を失った。同18年(1945)8月22日、ソ連の飛行船が〝荒城の月〟の曲を流しながら、日本の敗戦を告げ、投降を迫って、捕虜にされた。
シベリアまで約370キロを行軍。途中、力尽きて次々と戦友が倒れる。自分も絶命寸前のところ、道端に落ちていた1粒のキャラメルを拾って食べ、奇跡的に助かった。
シベリアでの抑留生活は、零下30度の猛烈な寒さの中、石炭堀りや鉄道建設、森林伐採などの重労働で、食べ物は黒パン一切れと塩スープだけ。多くの戦友が飢えと寒さで死に、凍土に野積みされた。
阪口さんは、このような体験談を、地図や模型写真などを使って説明。「ソ連兵は30連発の機関銃を持っているのに、私たちは1発発砲するたびに1発弾を込めたていた、それでも敵陣の中、湿地帯に身を潜めても、菊のご紋の入った銃だけは、濡らさなかった」と、しみじみと述懐。
「戦友が古里料理が食べたいと話すと、その翌日には必ず死んでいた。ソ連兵の命令で、戦友の遺体を、外に出さなければならないが、表に出すと即座に凍結する。私たちは戦友の瞼を閉じ、体を最も美しい形にした」と、当時の切実な思いを語り、「捕虜として行軍中、倒れた戦友が〝おい阪口、おれを置いていかないでくれ〟と息も絶え絶えにすがった言葉が、今もはっきりと聴こえてきます」と、涙を押さえた。最後に「あんな悲惨な戦争は、二度と繰り返さないようにお願いします」と締めくくった。
「サロン田園」は毎月2回開催。講演会や手芸、絵手紙講習、健康体操、社会見学会などを行っている。参加した「サロン田園」役員の本田千恵子さん(85)は「私たちは、阪口さんの貴重なシベリア体験を忘れず、次世代に戦争の愚かさを伝えなければなりません」と話した。
写真(上)はシベリア抑留体験を語る阪口さん。写真(中)は写真を参考にしながら阪口さんの講演を聴く参加者ら。写真(下)は参加者に「戦争反対」を訴える阪口さん。

更新日:2013年2月7日 木曜日 21:50

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