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機銃掃射の犠牲者は5人~戦時、橋本駅に米軍機

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橋本駅を機銃掃射する米軍機と逃げ惑う市民の光景を描いた冨田全紀さんの絵
    橋本駅を機銃掃射する米軍機と逃げ惑う市民の光景を描いた冨田全紀さんの絵
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橋本駅を機銃掃射する米軍機と逃げ惑う市民の光景を描いた冨田全紀さんの絵
    丸山公園に移設保存された橋本駅の銃痕の板壁
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板壁には戦争の生々しい機銃掃射の後が残っている
    板壁には戦争の生々しい機銃掃射の後が残っている

太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市古佐田のJR南海・橋本駅周辺が、米軍機の機銃掃射を受けた際、犠牲者の数は5人にのぼることが、7月11日、橋本市傷痍軍人会(阪口繁昭会長)の調査で明らかになった。7月22日に、銃弾跡が残る橋本駅の板壁保存・犠牲者供養が営まれる地元の丸山公園で、説明することになる。
同会の調査では、1945年(昭和20)7月24日午前10時頃、米軍・艦載機2機が飛来。同駅上空を旋回し、縦横に空襲。駅舎や2番線上りホームに停車中の貨物列車に機銃掃射を繰り返した。貨物列車に積んでいた松根油(しょうこんゆ)入りドラム缶が爆発し、貨物列車付近にいた中学生ら市民計4人が犠牲になったとしていた。
しかし、阪口会長が、橋本駅の板壁保存・犠牲者供養の式典を通知しようと、駅周辺の家々を巡っているうち、家族が犠牲になった2軒が明らかになり、その世帯主2人の証言から、犠牲者は計5人であることが分かったという。2人は、傷痍軍人会や市民有志で、板壁保存・犠牲者供養が営まれることに対し、謝辞を述べるとともに、参列することを約束してくれたという。
あの日、米軍機の機銃掃射で、2、3番線ホームの渡線橋下の倉庫の板壁(約10平方メートル)には、直径約1~2センチの弾痕が約20個も残った。ところが、板壁は駅舎のバリアフリー化工事に伴い、取り壊されることになったため、傷痍軍人会が、JR西日本に板壁の譲渡を要望。JR西日本は「大切に保存してくれるなら」と、板壁と渡線橋の登り口脇にあった「大正元年九月 鉄道院 東京月島機械製作所製造」と刻まれた標柱を譲渡した。
傷痍軍人会と市民有志は、すでに丸山公園内にある地蔵菩薩像の斜め前に、板壁の移設保存工事を完了している。なお、地蔵菩薩像は、1938年に山陽線・和気駅(岡山県)で起きた列車事故で、犠牲となった橋本尋常小学校の児童ら30人を慰霊している。
7月22日の板壁保存・犠牲者供養では、阪口会長が、これまでの経緯を説明。市民による読経の後、市内のハーモニカグループや、県立橋本高校の吹奏楽部(野球応援で不可の場合はコーラス部)が演奏し、戦争と列車事故の犠牲者の冥福を祈る。


更新日:2011年7月11日 月曜日 09:22

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