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米軍銃撃「犠牲者の碑」清掃献花♪若者に平和期待

太平洋戦争の末期、和歌山県橋本市古佐田のJR・南海「橋本駅」構内で、米軍機の機銃掃射により市民6人が犠牲になって72年――。地元有志でつくる「米軍銃撃犠牲者追悼の会」=阪口繁昭(さかぐち・しげあき)世話人代表(89)=は、その命日を3日後に控えた7月21日、同駅北側の丸山公園にある「橋本駅米軍艦載機銃撃犠牲者追悼の碑」の周辺を清掃、供花をして6人の冥福を祈った。
橋本駅の空襲は、昭和20年(1945)7月24日朝、米軍・艦載機が飛来。駅舎や停車中の松根油(しょうこんゆ)入りタンク積載の貨物列車に機銃掃射。タンクが爆発、銃弾を浴びた市民が死傷した。
JR西日本は橋本駅をリニューアル工事した際、無数の銃弾跡が残る同駅・跨線橋(こせんきょう)を撤去処分。阪口世話人代表は「これは後世に伝承、戦争の悲惨さを語り継ぐ必要がある」として懇願、了承を得て平成23年(2011)に跨線橋の一部、弾痕の残る板壁などを同公園に移設、説明板を立てた。
同時に「追悼の碑」(高さ約90センチ、幅約26センチ、厚さ約10センタ)を建立。そこには独自調査で確認した犠牲者6人=平林靖敏(ひらばやし・やすとし)さん(15)、恋中圭一(こいなか・けいいち)さん(47)、山本稔(やまもと・みのる)さん(38)、菅野廣雄(すがの・ひろお)さん(19)、海立節子(かいだて・せつこ)さん(20)、坂上貢(さかうえ・みつぐ)さん(14)の氏名と当時年齢を刻んだ。
以来、戦後70年(一昨年7月24日)の命日まで毎年、「追悼の集い」を営み、その都度、遺族や市長、県議、市議、地区役員ら大勢が参列。応其寺(おうごじ)の松井孝憲(まつい・こうけん)副住職が読経する中、参列者が焼香・合掌。「のぞみハーモニカクラブ」メンバーが「浜辺の歌」や「ふるさと」、県立橋本高校・吹奏楽部が「見上げてごらん夜の星を」などを演奏。冥福を祈ってきた。
今は、「追悼の会」会員は、全員高齢のため奉仕パワーも衰え、「追悼の集い」は戦後70年を節目に終止符。この日午前6時、体調不調の会員を除き、阪口・世話人代表と元紀北工業高校教諭・池永惠司(いけなが・けいじ)さん(86)、元南海電鉄社員の岩上茂富(いわがみ・しげとみ)さん(77)が、手に手に熊手(くまで)や竹箒(たけぼうき)などを持って参集。
蝉の声に包まれながら、「追悼の碑」の埃(ほこり)をぬぐい、「弾痕の板壁」を塗装し、ぼうぼうの草を引いた。さらに敷地の玉砂利に塩を撒(ま)いて清め、カーネーションや高野槇(こうやまき)を供えて深々と合掌。
池永さんは「平林くんは橋本小学校の同級生、坂上くんは伊都高校の同級生で、私は自宅で米軍機の低空飛行、機銃掃射を目撃。あの元気な二人は、その時に…」と悲しみを堪(こら)えながら、冥福を祈った。
玉砂利や雑草にへたり込みながら、清掃作業に汗を流した、シベリア抑留体験者の阪口世話人代表は、「戦争体験者はだんだん減り、やがて戦争の悲惨さや、平和の尊さを、次世代に伝えられなくなります。今後、若い人たちには、ぜひ、追悼の碑に手を合わせ、世界平和に貢献していただきたい」と訴えていた。
写真(上)は「弾痕の板壁」を塗装する池永さんと拭き掃除する阪口・世話人代表。写真(中)は「追悼の碑」周辺を清掃する阪口世話人代表ら。写真(下)は「追悼の碑」に手を合わせる手前から岩上さん、阪口・世話人代表、池永さん。

更新日:2017年7月22日 土曜日 00:00

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