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あの頃、すし詰め車内…天見・河内長野の単線区間

これまで22回にわたり、和歌山県橋本市の紀見峠から、同県高野町の極楽橋までを見てきた南海高野線アーカイブス。最終回は、紀見トンネルを越え、大阪府河内長野市の天見から河内長野までの単線時代を振り返る。
単線区間は当初、1907年(明治40)11月に発足した高野登山鉄道会社の手によって、14年(大正3)10月21日に長野(当時の駅名)・三日市町間が、翌年3月11日には三日市町・橋本間が開業した。現在の南海電気鉄道に改称したのは、47年(昭和22)3月15日からだ。
単線として開業したが、小半径曲線が連続する山間路線で、小型車両4両編成で1時間4本運転が限度といわれ、しかも、時速43キロを最高に、平均時速が33キロという状態だった。
昭和40年代に入って、南海橋本林間田園都市などの、沿線の住宅開発が計画され、沿線人口の増加に対応する必要から、輸送力増加とスピードアップを目指し、72年(昭和47)3月24日、河内長野・橋本間(約17・2キロメートル)の複線化工事に着手。23年の歳月を経て、95年(平成7)9月1日に完成した。従来からの橋本~河内長野間の7駅が、複線化によって林間田園都市と美加の台駅が加わり9駅となった。
55年(昭和30)以降になるが、単線時代の印象として残っているのは、朝夕のラッシュ時。橋本駅で4両編成の難波行き急行電車が、通勤・通学の乗客で、既に満員の状態で発車。各駅で停まるごとに、多くの乗客が乗り込み、よくも押し込めたと思うほど、車内が超すし詰めになり、目的駅で下車することすら容易でなかったこと。橋本行きの本数が少ない難波駅では、夕方からは帰途につく通勤・通学・買い物客が殺到し、すさまじい席取り合戦を展開したこと。また、駅での対向待ち時間の長かったこと、駅間距離が長い千早口~三日市町の中間に電車が対向できる南海全線では珍しい加賀田信号所(写真下)が設置され、3~4分ほど停車し、待たされたことなど、今日の状況からは考えられないような出来事が日常茶飯事にあった。
〔写真説明(上)は天見駅付近=74年4月29日撮影(中)は千早口駅でのズームカー同士の対向風景=81年4月7日撮影(下)は加賀田信号所=74年5月6日撮影〕
                          (フォトライター 北森久雄)

更新日:2011年11月29日 火曜日 20:12

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