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神谷の駅で対向車待ちも楽し~高野参詣の宿場繁盛

終着駅極楽橋(和歌山県高野町)一つ手前にある山の中の一軒家のような駅。19回目の
アーカイブスは、1928年(昭和3)6月18日に開業した紀伊神谷(きいかみや)駅。
ホームの写真は16年前、木々の間から見た駅舎は、ごく最近の撮影だが、開業当時とほとんど変わらない。文化遺産の香りが漂う木造駅舎が魅力的。
撮影時、上り電車が着くと、対向車待ちのために長い時間、停車。もうすぐ終着駅というのに…不思議といらだつ乗客はいない。乗客はホームに降り、あたりの景色を眺めたり、伸びをしたりして、新鮮な空気をいっぱいに吸っていた。乗務員も車外に出て一服。上りホームのレールに向けて腰かけ、くつろぐ若者の姿が気になったが、リラックスしたのどかな時間の流れに共感した。そのうちに下り側ホームには、4両編成の難波行き急行が入線。人気の高いズームカーの顔が揃った。
途中下車してみよう。駅前の急な山道を登ると高野参詣道の一つ、高野街道沿いの集落、神谷に出る。ここは明治から昭和初期にかけて、高野山に最も近い宿場として栄え、「日が昇ると銭が湧く」といわれるほど繁盛したという。
神谷で当時、父が芸能人相手の宿を営んでいたという崎山忠二さん(78)が、父からよく聞かされたという話をしてくれた。宿場は今で言う民宿のようなもので、うどんなどの飲食店も並んでいた。伊勢神楽の一団が一か月ほどの滞在中に、飲み食いにお金を使い果たし、九度山や高野口に神楽まわしに出かけて稼いでいたという。宿では浪曲や手品などの演芸もよく行われていたとか。
しかし、28年(昭和3)に紀伊神谷まで、翌29年に極楽橋まで電車がつき、その翌年にケーブルカーが開通すると、高野参詣の人々はここを通らなくなり、かつての賑わいがなくなった。
この付近には「日本最後の仇討ち」として知られる旧跡がある。詳細は略すが、1871年(明治4)2月30日、播州赤穂藩士村上四郎兄弟ら7人が、父の仇である同藩の西川一派7人を神谷の辻で待ち受けて本懐をとげた。当日見張人がいたという「黒石」や西川らの墓もある。集会所には仇討ちを描いたリアルな絵が飾ってあった。
                                (フォトライター 北森久雄)


更新日:2011年9月4日 日曜日 08:13

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