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御幸辻駅が奇跡の誕生、住民反対ルート変更で

南海高野線アーカイブス6回目は、前回に続いて御幸辻駅の写真を見ていただきます。その前に、御幸辻駅ができるまでの経緯について、少し触れておきましょう。高野線開通当時は、高野登山鉄道といい、当初の線路敷設の設計では、紀見峠駅から慶賀野の戎神社前を通って胡麻生に入り、相賀八幡宮付近に駅をつくり、さらに小原田から野に入り、現在のJR紀伊山田駅付近を通り、高野口町の小田と伏原の間に、終点駅を建設する計画になっていたようだ。
しかし、当時の紀見村の中でも、一等田地だった胡麻生では、鉄道ができると良田が分断され、米の収穫が減るうえ、踏み切りが危険で、用もないのに電車に乗って遊びに出かけ、出費がかさむと、住民から反対の声があがった。
また、1898年(明治31)に、和歌山線の前身、紀和鉄道が開通し、高野口駅では、高野山参拝客を人力車で運ぶ人たちが、電車が通ると仕事がなくなるという理由で猛反対し、今のようなルートになったといわれている。計画通りだと、御幸辻駅はなかったことになる。
写真(上)は、御幸辻駅とその周辺。ホームには高野山方面行き4両編成の1251形電車が到着。1962年(昭和37)3月12日撮影。写真(中)は、ハマユウの咲くホーム。乗客にとって目の保養にもなっていた。1966年(昭和41)7月4日撮影。写真(下)は、上りホームに着いた難波行きのズームカー。急行のヘッドマークがまぶしい。1980年(55)3月20日撮影。
                  (フォト・ライター 北森久雄)


更新日:2011年4月21日 木曜日 18:03

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