特集

 子どもを病気で亡くし悲しむ親御さんを勇気付ける 童話作家・佐藤律子さん(橋本市城山台3の21の10)

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童話作家・佐藤律子さんと佐藤さんの著書
    童話作家・佐藤律子さんと佐藤さんの著書
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童話作家・佐藤律子さんと佐藤さんの著書
    佐藤さんが執筆出版した著書類
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病院で闘病中の佐藤拓也君
    病院で闘病中の佐藤拓也君

「おかん(お母さん)、左足のひざが痛い」。橋本市立紀見東中3年の二男・拓也君(15)が、そう小声でもらしたのは、1996年7月の蒸し暑い頃だった。
佐藤さんは会社員の夫と長男、長女、そして拓也君との5人家族。最初は「どうせ反抗期の、年頃の子の言うことば」と、軽く受け流していたが、あまりに痛がるので、大阪府内の病院へ。
診断の結果、医師は「難病の小児がん(骨膜肉腫)です。すでに両肺に転移しています」と、じつに無残だが、それでも仕方のない告知を受けた。拓也は知らなかった。両肺に転移していれば、足を切断したところで、所詮、どうにもならないだろう。
結局、左足切断の手術はせずに、佐賀県内の病院で、漢方薬系の抗がん剤を飲ませた。それにしても、「注射さえ怖かるナイーブな子。拓也にがんを話すべきかどうか」。悩み抜いたすえ、近くのバスターミナルで、とうとう真実を打ち明けた。
よほどショックだったらしく、その後、食事をしないし、ものも言わなくなった。拓也君には「横顔を見ているだけでいい」という、好きな女生徒もいた。何でも話せる親しい男子生徒もいた。しかし、もう学校は、あきらめるほかない。そのまま東京の病院に入院した。
97年4月には県立紀北工業高校に推薦入学できたものの、登校できたのは、ほんの数日。依然、病状は芳しくなかった。一時は危篤状態となり、奈良県五條市の病院へ転院してきた。
その年の初夏。卯の花の咲く頃。拓也君は「おとん(お父さん)と、魚釣りに行きたい」とねだる。その言い方は、普段と違って執拗だった。佐藤さんは夫を説得。拓也君とともに夫の運転するマイカーに乗り、高野山麓を流れる清流「玉川峡」へ。
夫は竿を持って、うれしそうに、岩場を渡っていった。その姿を見た拓也君が、「おかん、見て、見て、おとん、楽しそうやろ」と言って、うれしそうに佐藤さんの顔を見上げた。
その日、マイカーで帰宅途中、車内で激しく咳き込み、喀血。そのまま入院し、9月18日に16歳の若さで永眠した。亡くなる少し前、佐藤さんは、苦しそうにしている拓也君に、「私が、目をつむると気持ちのいい風が吹いている。だから拓也、大丈夫よ」と慰めた。
ベッドの拓也君は「そう。どっちにしても、もう一度、ぼくの命、女神さまの天秤にかけてみるよ」と答えた。そして、ゆっくりと瞼(まぶた)を閉じた。そのまま意識は戻らなかったという。
佐藤さんは大分県出身。大阪で夫と結婚。拓也君ら3人を出産したあと、自然環境のいいマイホームをさがし、82年に橋本市の新興住宅地に引っ越してきた。その後、子どもたちが親離れを始め、少し時間ができたので、中学生の頃、持っていた漫画家になる夢に、もう一度チャレンジしようと思った。
手塚治の「火の鳥」のような心に響く漫画を描きたかった。ペンでイラスト描いて見せたところ、長女は「お母さんの絵は化石。でも、絵はダメだけど、文章はいいと思う」と評価してくれた。その意見に触発されて、急きょ、目標を作家に変更。約3年間、書いては消し、消しては書いた。
拓也君が小学校5年生の頃、夢はやっと現実に…。読売新聞紙上の童話募集に応募した「シーラカンスのうろこ」で、海の親賞を受賞した。翌年には、東北電力の募集で「遊太」、カネボウ・ミセス募集で「けいこ先生のほけんしつ」が、それぞれ童話大賞を受賞し、毎日新聞の児童小説でも「おーい夢」が優秀賞に輝いた。
その頃は、家族全員、病気など知らず、生き生きとしていた。忘れられないのは、東北電力で受賞した仙台市での表彰式。拓也君が、「ぼくも行きたい」とせがみ、夫も「連れて行ってやれ」と言う。
佐藤さんは拓也君と2人で、初めて一泊二日の旅をした。「新聞社のインタービューで、記者が『どんなお母さんですか』と尋ねると、拓也は『ふつうのお母さんです』と、真面目な顔で答えていた」「あわただしかったけれど、拓也との松島見物や、拓也と一緒に駅前で食べたラーメンの味が忘れられない」と述懐した。
佐藤さんは、悲しんでばかりいなかった。子どもの難病で情報を必要としている家庭はたくさんある。元気になった体験と、亡くなった体験を、一冊の本にまとめたらどうだろう。そう考えて、自分を含め7人の体験をまとめた「種まく子供たち」(ポプラ社)を出版した。
すると、これを読んだ全国の子どもからお年寄りまで、心を打たれ、たちまち36万冊が売れる反響ぶりだった。その後、佐藤さん自身のホームペに寄せられたメッセージをまとめた「空への手紙~雲の向こうにいるあなたへ」や、励ましのポエム、イラストを織り込んだ「大切なあなたへ」、生死と向き合った9組の親子の物語「いのちの灯台」を次々と出版した。
それだけではない。要請があれば講演会に出向き、子どもを亡くした経験を話す「語り手 登録バンク」を設立。語り手には、子どもを亡くしたが、子どもの苦しみをわかり、子どもを忘れないために、毎日、走っている消防士。命を守る仕事なのに、子どもを守ってやれなかったと自分を責める看護師など15人を登録。希望に応じて、会場に出向き、悩みや悲しみを払拭している。
一方、佐藤さんは「第二の故郷」ともいえる、橋本の人々への関心も深い。世界的な数学者・岡潔(おか・きよし)博士(故人)は、約20年間、両親の郷里・紀見村(橋本市)で過ごした人。文化勲章受章者で、名誉市民だ。
佐藤さんは「橋本市岡潔数学WAVE」からの依頼で、絵本「岡潔博士ってだーれ」を執筆。4月には市内の小学1年生に配る予定だ。また、戦後65年間、ただひたすら地域奉仕を続けている生涯現役の81歳を取材。いずれ「小説」に仕上げて、激励するつもりだ。
佐藤さんは「拓也から、生と死、人を励ます心、いろいろ教えられました」と語った。最後に「大切なあなたへ」の本の中から、少し紹介しておこう。「ほら あなたのために月がのぼりましたよ… どうぞ もうご自分をせめないで 少し お休みになりませんか 月のひかりに まもられて おこさんの 想いが 宙(そら) から そっと ふってきます…」
(2011年3月11日 曽我一豊)


更新日:2011年3月11日 金曜日 00:00

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