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米軍銃撃「怖かった!」橋本駅・2人の体験文紹介

和歌山県橋本市古佐田のJR・南海「橋本駅」で、米軍空爆により犠牲になった6人の「追悼の集い」が7月24日、近くの丸山公園の慰霊碑前で営まれ、当時、少年、少女だった2人の追憶文が読み上げられた。
以下は、橋本駅米軍艦載機銃撃犠牲者追悼の会の阪口繁昭(さかぐち・しげあき)世話人代表(92)が代読したS・Tさん(92)と、自身で読み上げた同会の池永恵司(いけなが・けいじ)さん(89)の追憶・目撃文。
◇[橋本駅での米軍小型機による機銃掃射](S・Tさん)
それは終戦23日前の早朝の出来事でした。当時大阪女子師範1年生(17歳)で、通学のため九度山駅一番の電車に乗り、橋本駅に着くと「警報発令」のため、電車は動かず、みんなは車中やホームで警報解除を待っていた。
突然誰かの「飛行機が来た」の怒鳴り声と機銃音が同時でした。とっさの事で逃げる場もなく陸橋階段の裏に臥せました。
飛行機(小型機)が旋回しながら「パンパン」と撃ちまくる音、銃弾がものにあたる音、私の背中に熱い物がばらばら当たります。(機銃弾の「薬きょう」だったのでしょうか)。
「今度は本物が当たるのではないか」「弾が当たれば終りや」との思いが頭をよぎりました。
機銃掃射西から東に向かってうちまくっている感じでした。
一番ホームに停車していた貨物列車も掃射を受けていて、積まれていた「松根油」(松の根から取り出した油でガソリンの代替燃料という話もあった)のドラム缶が燃え始め、すごい爆音と真っ赤な炎が舞い上がる。舞い上がったドラム缶が落下して屋根に落ち、瓦が飛び散る音。
「もうおしまいやわ」との思いで、あきらめかけた時、爆音が遠ざかりやみました。
「今逃げないと」、私は起き上がろうと頭をもたげました。隣に臥せていた体格のいい男性がじっと臥せたきり動きません。左大腿部から血が吹き出ています。
私は助けを呼ぶべきだったのでしょうが…、それは後に冷静になって思ったことでした。
その時は「早くこの場を逃れないと、又やってくる」、そのことばかりでした。
立って逃げようとしましたが、あまりの恐ろしさに足が立ちません。俗に「腰が抜ける」と言いますが、あれは嘘です。膝関節に力が入らず、立てない、歩けないのです。
私は這って階段を昇り、一番ホームまで来て足
が立つようになりました。
男性が仰向けに倒れ、腹部からピンク色のものが「グニャッ」と流れ出ていたのを覚えています。
それをしり目に、足は何故か西の踏切を渡り、母校橋本高女にたどり着き、先生や在校生の皆と北山に避難し、お弁当を食べて時を過ごし、身も心も平穏に戻ったことでした。(以上は10年前の手記。以下、追記文・略)
◇[米軍艦載機橋本駅銃撃事件の思い出](池永恵司さん)
戦後70年も経つと戦争を知らない方々も大変多くなり、いつまでも若いと思っていた私もこの10月で90歳を迎え『戦争とは』を伝えなければならない年頃となってしまいました。
橋本小学校4、5年生のころより徴兵で出征される方々を見送る機会が段々と多くなり、その度に市脇の氏神さんへ武運長久を祈るため国旗をふりふり愛国行進曲(見よ東海の空明けて…)を歌いながら行進し、約1kmの土道を歩き、徐々にその回数が多くなり、ほとんど毎日のようになったことを覚えております。
小学校5年生の12月8日、担任の鍋島先生から『大東亜戦争』が始まったことを教えられた(その日の新聞を未だ保管しています)。伊都中学校へ入学しても校庭は運動場も含め、すべて鉄筋の校舎の屋上もすべてさつま芋、南瓜畑となり、軍事教練が厳しく、銃器庫という倉庫のような建物があって、三八式銃と模擬銃が保管され、私たち1年生は模擬銃で訓練を受けました。
年1回海軍記念日『5月27日』は夜行軍といって学校を夕方5時頃出発して明朝橿原神宮に到着という強行軍があり、冬は金剛山へ雪中行軍もした。
3年生になって敗戦の約20日前にあった橋本駅米軍艦載機銃撃事件では、駅の貨車に積んであった松根油を狙ったものか、6名の犠牲者を出し、私の同級生2人も犠牲となり、その時の銃弾の痕跡が家から100m程離れたコンクリートの壁面に今も克明に残されております。
当時私は学徒動員で九度山にあった九度山林産化学という工場(現在の道の駅付近)で、近隣の松山で掘り起こした松の根っこを大きな鋸(のこぎり)で柱状に切断し、回転する機械で細かく粉砕し、小マッチ箱位の大きさにし、我々はバケツリレーでそれを鉄製の蒸留釜の上へ運んでは投入する作業をした。それを蒸留すると松根油がポタポタと落ちてきて、ガソリンの代わりの航空燃料となった。
その作業に一日従事すると『報国米』といって、干しうどんを米粒くらいの大きさに切ったものを一食分配給され、米と混ぜて食べたものでした。
2014年の7月24日の銃撃記念日には、古佐田人権サークル有志一同が追悼碑を建立し、その時の犠牲者の追悼を盛大に行った。
あの時私は米軍艦載機の搭乗者を目撃しました。私の家は橋本駅より高台の橋本高校の下にあって、超低空飛行していたので、敵の操縦士の横顔がはっきり目撃でき(飛行帽を被っていたので素顔は判りません)、相手は真っすぐ前の駅を見ていた筈なので、真横の方角の私は見える筈はないのですが、私は『見つかった』と思い(その時の直線距離約15m)、急いで部屋の反対側の押入れの、長持ちと布団の間に頭を押し込んだものでした。
広島、長崎や日本全体の犠牲に比べたら橋本の被害などは数から言えば微々たるものかもしれませんが、亡くなられた一人ひとりにとっての命の尊さは同じです。私たちにとっては生涯忘れることはできません。最近戦争を語り継ぐ人が高齢化したり、亡くなられたりしています。高齢者として、知っている限りの戦争の体験を語り継いでいきたいと思っております(原本=2015年6月)。
写真(上)は米軍艦載機の操縦士目撃文を読み上げる池永さん。写真(中)は丸山公園に設けられた6人の石碑や米軍銃撃の銃弾跡が残る橋本駅・跨線橋の板壁の一部。写真(下)は犠牲者の冥福を祈る車椅子の阪口世話人代表と後ろの池永さんの2人。

更新日:2020年7月25日 土曜日 00:00

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