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和歌山線・駅名覚え歌♪牲川さん作詞歌唱に大拍手

昭和時代の国鉄(現・JR)和歌山線の駅名を使った「和歌山線 駅名覚え歌」を作詞し、戦後の名優・歌手の川田晴久(かわだ・はるひさ)さんの〝川田節〟に乗せて、歌い続けている人物が、和歌山県橋本市胡麻生にいる。元・国鉄職員の牲川貞義(にえかわ・さだよし)さん(81)で、牲川さんは「うたで駅名を覚え、和歌山線を愛してもらえたら光栄」と話している。
和歌山線は、和歌山駅(和歌山市)~王寺駅(奈良県北葛城郡王寺町)間で、元・日本国有鉄道だが昭和62年(1987)に民営化。JR西日本の鉄道路線(地方交通線)となった。白煙を吐き、汽笛を鳴らして走る蒸気機関車は、昭和47年(1972)3月頃に姿を消した。
牲川さんが国鉄職員になったのは昭和30年。主に和歌山線の車掌や橋本駅駅員として勤務。国鉄民営化を前に、55歳で定年退職。その後10年間、民間会社で働いた。「和歌山線 駅名覚え歌」は、かけだしの車掌時代の昭和30年(1955)4月に、同僚2人(故人)と共に「駅名を楽しく頭に刻もう」と考えて作詞した。
その歌詞は「ここは和歌山、中之島、会いたいので(田井ノ瀬)来てほしや(布施屋)、なりもふり(船戸)もいわないで(岩出)、うった(打田)こけた(粉河)となぜ(名手)言うた…」=()内は駅名=といった調子の内容である。
現役時代には同僚との飲み会や、さまざまな宴会で、かの名調子、「地球の上に♪朝が来る♪…」のような〝川田節〟に乗せて歌い上げ、楽しく喝采を浴びてきた。
その牲川さんは先日、橋本市の元・西部中学校体育館で開かれた、長寿を喜び、生かし、楽しむ「輝きフェスタ」(伊都・橋本高齢者運動連絡会主催)でも、この歌を披露した。
舞台では牲川さん特注の、真紅のハッピを羽織った女性4人が、和紙作りの和歌山線・駅名入りの横幕(長さ10メートル余り、幅約1・2メートル)を手で掲げ、例えば粉河駅には観音像、吉野口駅には桜の絵を描いている。
牲川さんは国鉄職員時代の制服・制帽姿で颯爽と登場。右手にマイク、左手に指し棒(さしぼう)を持ち、無伴奏の中、慣れた手つきで、駅名を一つ一つ示しながら、自慢の歌を歌って進むと、大勢の高齢者は懐かしく聴き入り、大きな拍手が起きた。友人でフォトライターの北森久雄(きたもり・ひさお)さんは、さまざまなアングルから、歌う牲川さんの撮影に取り組んでいた。
牲川さんは退職後も、大阪で開かれる国鉄OB会をはじめ、橋本・伊都地方の福祉施設や中学校、老人会などで、この「和歌山線 駅名覚え歌」を紹介し続けているという。
「和歌山線に今は蒸気機関車の姿はなく、一部、駅名も変更されていて、昭和も遠くなりにけりです。それでもこの歌を歌うと、やっぱり皆さん、喜んでくれます」と、元国鉄マンとして感謝の思いを語っていた。
◇「和歌山線 駅名覚え歌」=()内は駅名。
「ここは和歌山、中之島、会いたいので(田井ノ瀬)来てほしや(布施屋)、なりもふり(船戸)もいわないで(岩出)、うった(打田)こけた(粉河)となぜ(名手)言うた、なんぼ私がかせいだ(笠田)とて、男みょうり(妙寺)につきまとい、こうやぐち(高野口)とはつゆしらず、はしもと(橋本)あたりをスタスタ(隅田)と、2人(大和二見)の仲を裂こうとは、それはあんまりご冗(五條)談、やがて来ましたきたうち(北宇智)の、2人の仲はよしのぐち(吉野口)、お里、沢市、つぼさか(壺坂=現在の掖上駅)の観音様に願かけて、ごせ(御所)で住もうか新所(大和新庄)帯、あんまり家賃が高い(高田)ので、これはしもた(下田)と家主に言えば、そんなことには応じ(王寺)ません、みなさん間もなく王寺です。生駒、信貴山、田原本、奈良や京都、大阪とお乗換え、またの会う日を楽しみに」。
写真(上)は「和歌山線 駅名覚え歌」を披露する牲川さん。写真(中)は和歌山線の全駅名を書いた和紙製の横幕。写真(下)は横幕を手で掲げる女性のために仕立てた特注の真紅のハッピを紹介する牲川さん。


更新日:2018年6月3日 日曜日 00:00

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