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戦友慰霊、戦友名簿…シベリア抑留・阪口さん語る

太平洋戦争中、ソ連軍の捕虜としてシベリアに抑留され、九死に一生を得て帰国した和歌山県橋本市傷痍軍人会会長・阪口繁昭(さかぐち)さん(89)は、7月18日、橋本地区公民館で開かれた書を読み・書き・語る市民グループ「展の会」例会で、自らの戦場体験を講演し、阪口さんの「二度と戦争を繰り返さないでほしい」という訴えが、聴講者の共感を呼んでいた。
この日「展の会」=寺井裕子(てらい・ゆうこ)会長=会員ら20数人が、同公民館・和室に参集。阪口さんは、戦前の中国・ソ連の地図や日本人・シベリア抑留の写真コピーなどを披露して、シベリア抑留体験を語った。
阪口さんは昭和19年(1944)、満蒙開拓青少年義勇隊に入隊。すぐ陸軍二等兵を命じられ、中国・ソ連の国境で転戦。左後頭部に被弾して左耳の聴力を失った。
同20年(1945)8月22日、ソ連の飛行船が「荒城の月」の曲を流し、日本の敗戦を告げ、投降を迫り、捕虜にされた。シベリアでは多くの戦友を失い、過酷な労役に耐えて同22年12月、万死に一生を得て帰郷した。
阪口さんは「ソ連では鉄道建設のレール運搬や、枕木にする白樺(しらかば)伐採作業などに酷使された」苦しみ、「連行途中、戦友が次々倒れ、自分もと思った時、道端に落ちていた一粒のキャラメルを拾い、口に入れた瞬間、全身に力が湧いて助かった」という奇跡、「捕虜収容所で、戦友が愛していた童謡『ふるさと』を、全員で歌った翌朝、戦友は穏やかな表情で亡くなった」ことなど、声を震わせながら紹介した。
最後に当時、阪口さんら1個師団・80人の日本人捕虜が元気に存命していることを故郷に知らせる「戦友名簿」を、ソ連兵に極秘で作成し、持ち帰った事実も報告した。
阪口さんは「ソ連兵のセメント袋を密かに切り取り、日本兵がポケットに隠し持っていた鉛筆(長さ約3センチ)を使って、ソ連兵に見つからないように全員の出身地、氏名を記帳した」ことを説明。
阪口さんは帰還の際、この「戦友名簿」を自分の脹脛(ふくらはぎ)に貼り付け、ゲートルで巻く。ソ連兵にバレたら、その場で銃殺される。決死の覚悟で、ソ連ナホトカ港で身体検査を受ける寸前、まだうら若い阪口さんは、ソ連兵から「おい少年、早く行け!」と強い口調で、いとも簡単に通され、復員船で九州・佐世保港、列車で郷里・橋本に帰ることができた。阪口さんは、戦友名簿を頼りに、電話や訪問などで、可能な限り戦友の存命を伝えてきた。
今回、阪口さんは、この「戦友名簿」を持参。寺井会長に「皆さん、どうぞご覧ください」と手渡すと、参加者らは「命がけでよく持ち帰られた」と感銘を受け、さっそくスマホで撮影保存していた。
阪口さんは今夏、ロシア・ハバロフスクにある「ソ連抑留中日本人死亡者慰霊碑」に初めて行こうと計画。パスポートも取れたが、7、8月は旅客機が満席で、仕方なく断念。「体調さえ良ければ、来夏、何としても現地に赴いて、全身全霊で慰霊したい」と語った。
写真(上、中)はシベリア抑留体験を語る阪口さん。写真(下)は阪口さんが命がけでシベリアから持ち帰った「戦友名簿」。

更新日:2017年7月19日 水曜日 00:00

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