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順教尼の和歌♪薩摩琵琶で語る~禅僧・関川鶴祐師

日本の代表的な薩摩琵琶(さつまびわ)の第一人者で臨済宗僧侶の関川鶴祐(せきがわ・かくゆう)師(59)=奈良市在住=は11月16日、和歌山県九度山町の大石順教尼(おおいし・じゅんきょうに)の記念館・旧萱野家(かやのけ)で、昔、両腕を失くして口筆で書画を描いた順教尼の和歌をテーマにした「順教尼いのちを詠う」と題する〝琵琶の弾き語り〟を上演し、同館がその歴史的光景をビデオで撮影収録した。萱野正巳(かやの・まさみ)館長は「さすがに関川師は、神仏を崇拝し、見事、障がいを克服した順教尼の最良の理解者です」と絶賛して、謝意を述べた。
順教尼(1888~1968)は大阪・道頓堀生まれ。17歳の時、養父の狂乱で、両腕を切り落とされたが、カナリヤが子どもに口でエサを与える姿を見て、両腕がなくても大丈夫と悟り、口に筆をくわえて書画の道に邁進。高野山で得度した後は、「菩提親」の旧萱野家に宿泊。障がい者の社会復帰事業にも貢献した。
この日、関川師は高野山の見える和室8畳の間に黒白の法衣姿で正座。1面の琵琶を抱え、あと2面の琵琶を畳に据えて、巧みに弾き語り。順教尼が両腕を失くして仏道に帰依し、やがて涅槃(ねはん)の境地に至るまでの心を綴った和歌を切々と披露した。
最後に、順教尼が涅槃の境地に至り、両腕を失くす以前の、思春期の自分を思う「涅槃の章」では、引磬木鉦(いんきんもくしょう)を叩いて、切々と詠い上げると、参加女性たちから大きな拍手が起きていた。
萱野館長の話によると、関川師は先月「順教尼いのちを詠う」など、2題を同館で演奏したが、今回はその演奏場面をビデオ撮影し、記録保存しようと開催。前回聴けなかった女性たちも参加した。
関川師は最終の「涅槃の章」で、順教尼が詠んだ「ありがたや きょうも菩薩の声ありて さとし給いき おのがつとめを」の一首と、両腕を失くす前年の自分を追憶する「扇もつ手にも うたにも恋といふ言葉 覚えぬ十六のころ」の一首を取り上げ、「すでに順教尼にとっては、両手があっても自分、なくても自分です。これが涅槃です」と説き、また「人間万事(じんかんばんじ)、塞翁(さいおう)が馬(世間の吉凶・禍福は変転し予測できないという意味)。順教尼は見事、涅槃の境地に至り、障がいを乗り越えています」と、わかりやすく語った。
一方、関川師は琵琶演奏の後、自身が高校を卒業したばかりの18歳の時、親の反対を押し切って四国88か所を踏破。その時、巻紙に描いた釈迦如来や阿弥陀如来、大日如来などの絵を収めた4巻を同館の縁側で公開した。
関川師は「野宿生活の巡礼は辛かったが、仏画の出来具合は、初めと終わりと明らかに違っています。親は反対から賛成に変わってくれました」と述懐。参加者は関川師の若き日の仏画に見入っていた。
以下は、関川師の略歴と薩摩琵琶で披露された順教尼の和歌(構成=関川師)。関川師は1956年、大阪生まれ。高校を卒業後、四国88か所巡礼。薩摩琵琶の巨匠・鶴田錦史(つるた・きんし)師に師事。85年に第22回日本琵琶楽コンクールで1位入賞。93年に臨済宗・建長寺で座禅修業。能面、絵画制作にも通じ、東日本大震災後、仮設住宅で薩摩琵琶を演奏供養、神仏のご加護(かご)を説き、被災者の安寧を祈ってきた。
「順教尼いのちを詠う」
一、刃雨の章
雨…雨…雨…
天地を貫き、身を切り裂く、雨…雨…
夢か、幻か、血汐に光る刃の雨
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
「そもそもこれは 恒武天皇 九代の後胤
平乃知盛 幽霊なり」
舟底の朱ぬりの枕にくろ髪は
血汐にぬれてまつわりつきぬ
二、死の章
われ一人残してゆきし五人の
妓の魂はながれてぞゆく
血の海と 涙の川におぼれつつ
今日ここまではたどりつきれど
三、 光の章
くちに筆とりてかけよと教えたる
鳥こそわれの師にてありけれ
何かわれにしらすとならしほととぎす
枕にちかく来鳴くを見れば
心ある都の人に聞かせばや
高安山に鳴くほととぎす
四、 いのちの章
いまわしき過去をのがるる一日は
新しき命の一日と知る
つみ深くあわす手もなき身をもちて
大師のみ子となるぞ嬉しき
五、 涅槃の章
ありがたやきょうも菩薩の声ありて
さとし給いきおのがつとめを
おとされし腕は高野の霧の中
扇もつ手にも恋といふ
言葉覚えぬ十六のころ
写真(上、下)は薩摩琵琶で順教尼作の和歌を弾き語る関川師。写真(下)は関川師が18歳で四国88か所巡礼の時に描いた計4巻の仏画の数々。


更新日:2015年11月17日 火曜日 00:00

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